種一弓 魔法のブログ からから★

無意識の深層には、古代から引き継いだ神秘と魔法のミステリーな世界が広がっています。

私たち人間にとって「希望」という光に向かって「Streven」することは大切です。
天使はそれを今か今かと待っているからです。

からから★は、人間意識の概念を打破する力の素粒子です。

目の前にあるのに見えないことが当たりまえになっているこの世界を脱するためには浄化が必要です。

深層に広がる時空を超えた魔法の世界・・・
言葉を通して感じてもらえれば幸いです(^^)v

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2008.05.15 Thursday

初対面の心理

最近多くの人と会話をすることがあり、ふと気がついたことがあります。
人のこころの反応は面白い…と。

初対面かほんの少し顔見知り程度の人と会話をするとき、みなさんはどうしますか?

もじもじしてあまり話せない人
会話をしようと懸命に話題を提供してみる人
話そうという気もおこらず、じっと黙っていられる人
話しが続かなくて空気がしらけてしまうのに耐えられず場を去る人
気さくにどんどんと相手の心を掴もうと話題を盛り上げていこうとする人


性格や慣習などの様々な要素が組み合わさって、人は新しい出会いを体験していきます。そしてそこでは決まった方法や順序によって出会いが成立するのではないということを改めて発見したのです。

初めて会った人から受ける印象や声のトーン、顔の表情から伺い知ることができるその人の性格の一部や癖などをチラッと横目で観察しながら、その人のこころに接近していくわけですから、その後友達や知り合いになるかならないかは別として、その一連の過程が非常に面白いと思ったわけです。

私はあまり人見知りをしませんので、老若男女・人種や国の違いを超えて誰とでもいつもどおりに話しをします。そのときは相手の全てを考慮して話し始めるわけではありません。その全く逆です。
まずは相手を知る前に自分への警戒心を解いてもらうつもりで、軽い会話をしていくのです。つまり誰であっても始めの入り口は「はじめまして」という何も知らない状態に変わりはないのですから。

ところが警戒心が溶け始めると、人はだんだんと初対面での会話のキャッチボールをし始めます。そこでちぐはぐな会話をしている内容が何とも面白くなっていくのです。

それまでの人生も経験も、趣味も好みも何にも知らない同士が、何だか会話をしているうちに気が合い始めたときの嬉しさはひとしおですよね♪

予期せぬ性格や趣味を持っている驚くように楽しい人と出会ったときには、新しいブランドのバックを買ったときのように感動するのです。

初対面が苦手だと思う方に是非おすすめなのは、自分にも相手にも関係ないような身近な話題から突破口を開いてみるという方法です。それがたとえつまらない芸能ゴシップであっても、世の中を賑わせているニュースであっても、美味しいご飯の話題であってもいいわけです。

自分にあった警戒心解除のための会話仕掛けの方法を、いくつか常に用意しておくと便利かもしれません。
たとえもう二度と会うことのないであろう人との会話であっても、無駄な時間として過ぎ去らせてしまうよりも、心に何かが残るような時間を共有することは自分のためにもなるからです。

でもあまり続くと疲れますけどネ・・・(^_^;)



人は相手に対して警戒心を持っているうちは、会話というキャッチボールを上手に出来ないと私は思っています。
2008.05.06 Tuesday

「時」は金なり!

ゴールデンウィーク連休も今日でおしまい。

ゆっくり出来た人も出来なかった人も、明日からまた社会という高速道路を車輪のように回転させ、走り始めなくてはなりませんね。


「時」がこれほど人間の手から離れ、自由に扱うことが出来なくなってしまったのは何時ごろからなのでしょう。
自然や大地、太陽や星辰と手を取り合って生きていた頃は、人はもっと「時」を深く知っていて、時とともに生き、時を愛し大切にしてきました。時が人を支配できることを知っていたからこそ、時に自らの人生を捧げてしまう愚かさに抵抗したのかもしれません。



マヤ文明では、「時」には支配者がいました。

時を支配するものに畏敬の念を持ち、人々の心の中で「時」の支配者が持つ性質を感じ取り、自然や太陽が教えてくれる「時」の知らせを確かなものとして受け取りながら生きる道を歩んでいました。

四季があるのに四季を知らず、自然現象が告げる重大な知らせにも耳を貸さず、何処へ向かう高速道路なのかも知らないまま走り続ける現代人のこころには、もはや「時」が告げる真実に目を向ける余裕などないのかもしれません。


しかし昔から「時は金なり」と言われていることから、「時」のもつ本当の価値を発見することは人間にとって素晴らしいことだと認識されていることもまた事実です。

時間に追われないように、時間を使うことの大切さは誰しも知っています。
今という時間は二度と戻らないから、時を大事にすることの重要さも知っています。


でも「時」には大いなる力と権威、世界を変えてしまうほど強い性質と富があることをはっきりと認識している人は多くはありません。


いいものも悪いものも
辛いことも嬉しいことも
病も痛みも
不幸も幸せも
すべては時が解決してくれます。

しかしこの「時」は、単なる「時間」ではありません。
1時間、一ヶ月、一年と「時間」が過ぎるから解決していくのではないのです。

「時」の支配者に身を委ねることしか出来ない事柄は「時」の支配者によって「解決」出来るのです。
決して「時」を甘く見てはいけないのです。

「時」のことをもっと知りたい!
そう思われた人は、「時」の大切さに畏敬の念を抱いている人に違いありません。

マヤ文明の智恵には「時」について学べることがたくさんあります。


私の車輪もまた回りはじめました。
あまりはっきりしない天候が続いた連休最後の早朝に、雲ひとつない青空を見ることができて嬉しく思います。


(*^_^*)

2008.04.17 Thursday

誰かと誰か

誰かが誰かを愛するとき 宇宙の果てに星が生まれる

誰かが何かを失うとき 木々の間にそよ風が乱舞する

誰かが誰かを助けるとき 大地に新芽が顔をのぞかせる



ひとりが一番なんて強がりをいっても

人生100年なんてどんなに励まされたとしても

人は誰かと関われなけりゃ 生きてる実感なんて持てやしない



愛の間を彷徨っていた少女が白髪の老人に優しくできたとき

ひきこもっていた青年が盲目の少年の手を引いて歩いたとき

子育てに疲れ果て暴力をふるっていた母親の髪を、幼子が笑顔で優しく撫でてあげたとき

誰かと誰かの運命の吐息に力が吹き込まれ、きらめく光が宇宙の星辰を照らしあっては輝きを放つ




つまらないなんて言わないで 黙って受け止めてみよう

面倒だなんて思わないで 静かにさみしい人の声を聞いてみよう

そこに見いだすのは忘れていた自分だから




都会の雑踏の真ん中で孤独を感じ 人里離れた山奥のロッジで愛を感じる

高度な医療施設の真ん中で病の傷みを感じ、大自然の真ん中で癒しを感じる

社会のうねりに飲み込まれた人は死を間近に感じて震え慄き、社会を捨てて山に篭った人は死を感じては美しさに戦慄を覚える




何が正しくて何が間違っているかなんて 誰が決めたっていいじゃないか


何がよくて何が悪いかなんて 知らなくてもいいじゃないか


そんなことよりもっと大事なことがある



誰かが誰かを愛することや 誰かが誰かを失うこと

誰かが誰かを助けることや 誰かが誰かと呼応すること



誰かをわたしのなかに受け入れれば 誰かはわたしの中心にいて わたしは一人ではなくなり


愛によってわたしが誰かの中に溶け込めば わたしの周りには必ず誰かがいて わたしは一人ではなくなる


(^^)v

2008.04.06 Sunday

脳と心が生み出す追いかけっこ

子どもの頃の楽しい遊びの一つに「追いかけっこ」があります。
人は誰かに追いかけられると理由など関係なく反射的に逃げる、という反射行動本能を巧みに利用した面白い遊びです。
ところでこの「追いかけっこ」という遊び、追いかける人と逃げる人のどちらが楽しいでしょうか?

一生懸命追いかける子は、逃げる子を掴まえようと必死ですし、逃げる子はつかまらないよう逃げるのに必死です。
人は「時間の追われて・・・」とか「逃げるが勝ち」などのように、追ったり逃げたりすることを習性とするかのような言葉を使うことがあります。
この「逃走」について少し考えてみましょう。



逃げる人
逃げる→追いかけられる→つかまる→逃げる


追いかける人
(相手が逃げる)→追いかける→つかまえる


逃げる人と追いかける人の関係は、見てわかるように逃げる人がいなければ当然追いかける人は発生しません。
たとえば逃げる子は、掴まえようと追いかけてくれる子が休憩しているときは逃げるのをやめることができますが、追いかける子に追いかけられている間は、つかまらないた

めには逃げ続けるしかありません。
ところが追いかける側の子は、逃げる子が逃げているときは追いかけますが逃げている子が休めば、掴まえます。そして逃げる子が逃げていても休憩をとったり追いかけない

という選択をとることも容易です。

このように見ると、追いかける子は自分に選択の自由があり、逃げる子は自由があるようで実はありません。
さらに逃げる子は、追いかけてくる何かがあるから逃げる、逃げなきゃいられずに逃げる、つかまるのが嫌だから逃げる、逃げる理由も考えずにとにかく逃げる、というように意味のない循環をひたすらぐるぐる回りすることから抜け出せずにいることに逃げる人は気づきません。

また、追いかける側にはちゃんとした追いかける理由があります。
それは追いかける必要があるからであり、また「逃げる」相手がいるからです。
ということは、追いかける側が追いかけることに理由に意味を見いださなければ、追いかける必要もなくなります。

ここで「逃げる」という行為を人間の防衛本能や本能的習性であることを認めたら、そこには明らかな理由がないことを私たちは発見します。
つまり逃走することは、誰かが教えなくても人間が自然に出来る反射的行為であるとも言えるでしょう。

最初の質問に戻ると、追いかける人は掴まえることが楽しかったり追いかける必要を感じたりする人は楽しいと感じるけれど、そこに理由を見いださない人には面白くないということが理解できます。逆に逃げる人は、逃げること自体が動物の反射機能に属しているため、理由など関係なく、追いかけてくれる人がいる限り逃げるのは面白いと感じ、逃げ切れることに喜びさえ感じるに違いありません。

となれば「追いかけっこ」では、追いかける子より逃げる子のほうが面白い!となるのでしょうか。

この「逃走する習性本能」もちろん「遊び」に留まりません。
人間は何か困ったり、苦しんだり、悩んだりすれば、その原因・根源から逃げようとする学んだ習性と反射本能があります。
それは自分の生活に追い迫る「何か」が、自分を捉えようとしていると感じているからです。
その「何か」に対して対処できる術や智恵があれば、逃げる必要などないわけですから、その人にとっての「何か」は当然脅威的であり、得体の知れない理由なき相手であることに違いありません。
先ほどのように、逃げる子が追いかけてくる何かがあるから逃げる、逃げなきゃいられずに逃げる、つかまるのが嫌だから逃げる、逃げる理由も考えずに逃げる、という意味のない循環の坩堝にハマることに気づかないまま、その人は本能に赴くままとにかく「逃げる」わけです。

それでは何の解決を生み出さないのですが、動物的反射機能だから致し方ありません。
脳が逃げる習性を抑えようと理性を働かせても、動物的身体を備えた心が逃げる習性を持つならば、それは脳と心が生み出した妄想の追いかけっこになってしまい、妄想と習性から逃げ出すには脳と心の両者だけでは解決できなくなってしまいます。

ではどうすれば「逃げず」にすむのか。どうすれば掴まらずにすむのかを考えてみます。

逃げる人が逃げることから自由になるときはいつでしょうか?

一つ、つかまったとき。
二つ、追いかけるのを相手がやめたとき。
三つ、逃げない選択をしたとき。

本能のままに逃げる循環から抜け出すためには、上の3つの選択が考えられることに気づく必要があるわけです。
しかしたとえ本能的反射行動であっても人間は理性で認識することによって心の習性をコントロールすることは可能です。
そのためには理性の認識を用いて逃げることから自由になることが可能になることを、逃げている人に教えてあげなければなりません。
それがどれほど大変であっても、どれほど辛いことであっても、どれほど面倒で苦しいことであっても、ひと度逃げてしまうと、追いかける「何か」から逃げ続けなければなりません。そしてそのことは別の「苦しみ」を生み出します。

自分の強い意思で反射としての逃走本能に打ち勝つための自信がない人が、自分ひとりで戦うのではなく、誰かに手助けをしてもらうことも一つの方法かもしれません。

掴まえてくれる何らかの手段に頼る
追いかけないよう相手に頼る
逃げないように抑えてくれる誰かに頼る

そんな方法であってもいいのです。
とりあえず「逃げる」という車輪から誰かの力を借りて抜け出すことが大切なのです。
そして逃げずにいられるようになったら、何故逃げたのか、何から逃げたのか、逃げた理由をしっかりと理解することで、自分の本能に打ち勝つ力を得るでしょうし、理由なき戦いに終止符を打つこともできるでしょう。

「逃げる」という行為が人間の反射であり防衛本能である以上、それは誰しもがとる行動なのです。
そしてその本能を操ることのできる理性と意味と力を手にしない限り、人が逃げるという逃走本能に終わりはないということなのです。

逃げるが勝ちか、掴まるが勝ちかは、その人の知性と理性によって選択される回答なのだということでしょうか・・・(*^_^*)



ところで別の角度から「追いかける」人について少し考えましょう。

もし悪知恵の働く鋭い知性の持ち主が「追いかける」ことを始めるならば、いつの間にか普通の人は「逃げる」という手段をとっていることになるかもしれません。逃走反射を巧みに利用しようとしているわけですから。
さらに、逃げる意志のない人が突然「追いかけられる」という羽目に合ったなら、それは危険を伴うということも知らなければなりません。

これら「追いかける」「追い詰める」「追い求める」の元となっている「追う」という心理には、逃走反射本能とは全く異なる意味で、人間の本能に近いものが存在しています。
それは「目標をめざして進む」という意味においての心理作用です。

「逃げる」のが逃避・防衛する本能なら、「追いかける」のは好奇心を満たし、獲物を得るときの達成感のような人間の欲に関わるものだと言えるのではないでしょうか。

誰しもが持つ生理的・社会的欲求や本能は、人の心や肉体、精神を満足させようとする反面で人の理性と知性に常に戦いを挑み、挑戦状を送り続けています。
そしてその解決方法は無限にあるでしょうし、心の動きも同様の変化分あるでしょう。
けれど人間である以上、決して動物的本能にまかせてばかりもいられません。

脳にも心にも共通して存在している習性があります。
「自らの身や存在を敵から守る」本能と「生存本能」です。
そのうち特に強いのは「生存本能」だと私は思います。
「生ある存在であること」を無視されたり、拒否されたり、追い詰められたり、隠れ潜んでいるままにしたりすれば、人の精神などあっという間に崩れてしまうに違いありません。

追いかけっこは遊びながら楽しんですればいいのです。
しかし脳と心が生み出す妄想の追いかけっこに、本気になって心も精神も疲れ果ててしまうのは愚かなことなのではないでしょうか。


逃げようとする友がいたら、追いかけずに立ち止まり、掴まえようとせずに耳を傾け、自の車輪から逃げないという選択が出来るよう支え、友の車輪を止めようと共に原因に立ち向かってあげること。
そんな本当の友に私はなりたいといつも思っています。
(^^)v

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