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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>種一弓　魔法のブログ　からから★</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/" /><modified>2008-08-23T13:35:49+09:00</modified><tagline>無意識の深層には、古代から引き継いだ神秘と魔法のミステリーな世界が広がっています。

私たち人間にとって「希望」という光に向かって「Streven」することは大切です。
天使はそれを今か今かと待っているからです。

からから★は、人間意識の概念を打破する力の素粒子です。

目の前にあるのに見えないことが当たりまえになっているこの世界を脱するためには浄化が必要です。

深層に広がる時空を超えた魔法の世界･･･
言葉を通して感じてもらえれば幸いです(^^)v</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>真の自由と愛ある１タラント</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=776103" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=776103</id><issued>2008-08-23T13:24:01+09:00</issued><modified>2008-08-23T04:35:49Z</modified><created>2008-08-23T04:24:01Z</created><summary>「自由であること」と「自由になること」は私の中では大きく違っています。

自由であることは、今の日本では国民に与えられ保障されている無色透明な法律です。
誰もが自分という個人の人権と自由を保障されている、そして「あなたは自由なのだから」として人生の自由...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>地球学</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#996633">「自由であること」と「自由になること」は私の中では大きく違っています。<br />
<br />
自由であることは、今の日本では国民に与えられ保障されている無色透明な法律です。<br />
誰もが自分という個人の人権と自由を保障されている、そして「あなたは自由なのだから」として人生の自由選択を求められています。<br />
でもこのことが「自由であること」だと私には思えません。<br />
「自由であること」という制約付きの不自由なのです。<br />
<br />
<img src="images/hanabi.JPG" width="256" height="192" alt="" class="pict" /><br />
<br />
自由になることとは、すべての制約から自分が解放されることです。<br />
すべての制約…つまり、すべて当たり前だと信じて思って生きてきた価値観から、規則や道徳観、そして人間であることの基本的概念、既成概念、固定概念などの全てから自分の意識を放つことが出来たとき、本当の意味での「自由」が与えられ、「自由になること」が出来るのだと思うのです。<br />
だからといって、好き勝手なことをすることが自由ではないのは当然です。<br />
<br />
<br />
人が生まれたときから与えられているものは「自由」なのではなく、「自由になること」への制約つき自由なのだと思います。<br />
<br />
何故このように「自由」に拘るのかと言うと、この「自由」は「愛」と同じような性質と二面性を持っていて、恐ろしくてかくも素晴らしく魔法のような「ことば」だからです。<br />
<br />
「あなたにはどちらを選択してもよいという自由が与えられてるわ」<br />
「君には自由意志があるのだから、それを尊重しよう」<br />
「お母さんはあなたを信じてる。だから自由に生きていくのを応援してるじゃないの！」<br />
「お願いだから俺を自由にしてくれ！」<br />
<br />
これらの「自由」が本当の意味での自由について語られているのかを考えてみてください。<br />
<br />
自由は<span style="color:#FFFF00">人に</span>与えられるものではない！<br />
自由意思とは、尊重されるときと<span style="color:#FFFF00">そうでないとき</span>がある！<br />
<span style="color:#FFFF00">自由に生きる</span>ことが自由になることではない！<br />
自由になりたいのに<span style="color:#FFFF00">自由は与えられない</span>！<br />
<br />
そんな意味合いが隠されてはいませんか？<br />
<br />
すべての制約から解放されて自由になっている人間には、どれが真の自由な姿か偽りの自由かを見分けることが可能です。そして自由の素晴らしさと恐ろしさを知ることで、自由を敵にも味方にもつけることができる才能を身につけることも出来るようになります。<br />
<br />
「愛」を武器にして生きる人がいるように、<span style="color:#FFFF00">「自由」という武器</span>を手に入れて生きていくのです。<br />
<br />
<img src="images/kawaguchi.JPG" width="320" height="240" alt="" class="pict" /><br />
<br />
お笑い番組のエンディングで、ギターを弾きながら「○○イズ　フリーダム！　○○イズ　フリーダム…」とネタを歌にしながら、最後に「○○は自由だ〜〜！」と叫ぶギャグがあります。<br />
いつも楽しく拝聴しているのですが、何とも自由の心理を上手くつかんだものだと感心させられています。<br />
「自由」は常にどちらかを選択する意志として、彼のネタに取り入れられているようです。<br />
[:星:]<br />
<br />
ところで人間には、誰にでも何か特別な力やタレントが与えられています。<br />
しかしその能力やタレントにその人自身が気づき、現実に活かせるか否かなどは誰もわかっていません。<br />
そしてその力が活かせるとしても、そのことがその人にととって幸せであるとも限りません。<br />
ここでいう「タレント」とは、聖書の「タラントのたとえ」に出てくるような意味として捉えます。<br />
<br />
「タラントのたとえ話」については、検索をすればたくさんのサイトがありますので、一度読んでみてください。（<a href="http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/otozure/otozure93.html" target="_blank">幸せのおとずれ</a>　タラントのたとえ話）<br />
<br />
タラントという言葉を英語でいえば「タレント」なのですが、能力や才能、クリスチャン用語でいえば「賜物」として理解されてきたようです。<br />
それらはすべて、この「タラント」のたとえ話から派生してきた意味のようです。「与えられたタラントを用いて…」というふうに、与えられた賜物・能力を生かして…という意味で使います。<br />
<br />
本来の「タラント」の意味は、重さを量る「はかり」のことで、重さ、金のをあらわす単位にもなったようです。<br />
聖書では当時、1タラントは６０００デナリとあります。1デナリは、労働者の一日分の給料に相当します。一日1万円と見積もれば6000万円、安く見積もって5000円としても、およそ3千万円という金額になります。<br />
<br />
<img src="images/fujimt.JPG" width="256" height="192" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
<span style="color:#FF0000">私には、このタラントこそが「自由」や「愛」に近いものとして感じられます。</span><br />
<br />
１タラントをもらった人、５タラントをもらった人、それぞれその人たちは感じ方も使い方も違います。<br />
タラントを活かすも殺すもその人にまかされているのですが、そこには損得感情や欲も重なって正しくタラントを用いることができないかもしれません。<br />
<br />
愛については特に、そのような場面を想像させる多くの出来事があります。<br />
<br />
１タラント分の愛を与えられているひとは５タラント分の愛を与えられている人を羨んだり、自分を惨めに思ったりすることがあります。また、１タラント分の自由しかないと感じるひともいれば、５タラント分の自由が与えられていることを愛情がなかったと感じて誤解している人もいます。<br />
自由や愛は、はかりでは計れないものであり、お金に換算することもできません。<br />
だからこそ、その人自身の考え方によるところが大きいのではないでしょうか。<br />
<br />
究極のところ、その力やタラントはその人の「生き方」「考え方」「思い方」に影響するものであって、どんなに素晴らしいタレントを持っているとしても、そのような自分を生きることが出来るかどうか、タラントを活かせるかどうかは、本人にまかされているのではないでしょうか。<br />
<br />
同じように、自由も愛も、与えられているものとして理解し、量りやものさしではかられ、多い少ないで人生を束縛していては、増えるどころか自分を殺してしまうに違いありません。<br />
最初は与えられたものであっても、最終的にはほんとうに自分のものとして受け止め、そのタラントを何倍・何十倍・何千倍にも増やすことができる…それこそが、真の自由と愛を手にすることなのではないかと思うのです。<br />
<br />
ちなみに私が本当の自由と愛を手にすることが出来たのは、４４才の頃です。<br />
人間とは欲深く、自我が強く、自分を知らず、思いのほか手こずる生きものです。<br />
自分が何タラントもらっているかなんて、本当は関係ないのです。<br />
<br />
真の自由を手にすることは、鳥が空を飛ぶための羽を手にするようなものです。<br />
魚が海の中を泳ぎ回るためのエラ呼吸を手にするようなものです。<br />
春に芽生えたタンポポの花のようです。種を残すための綿毛は、風に乗って飛ばされますが、そこにもうタンポポの意志などは通用しません。<br />
<br />
自由になれて初めて気づいたことは、全ての制約をつくっていたのは法律でも社会でも親でもなく、自分の心だったということです。<br />
私に与えられている真の「自由と愛ある１タラント」は、私だけに与えられていたものなんかじゃなくて、皆に与えられてるものなのです。ただ違うのは、その種類や形、色なのであって、そのタラントが一番輝ける場所が、その人自身なのだということなのです。<br />
私に与えられたタラントを輝かせることができるのは、私だけなのです。<br />
同じように、娘、息子に与えられているタラントは、彼ら自身の中でしか見つけられず、輝けない。<br />
そんなものなのかもしれません。<br />
<br />
あなた自身の中に眠っている「真の自由と愛ある１タラント」は、何なのでしょう？！<br />
(*^_^*)<br />
<br />
みなさんの心が真の自由を得られるよう、祈っています。</span>]]></content></entry><entry><title>目に見えない世界</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=766793" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=766793</id><issued>2008-08-03T12:50:44+09:00</issued><modified>2008-08-03T03:58:39Z</modified><created>2008-08-03T03:50:44Z</created><summary>

私たち人間は、ものを見る「目」を二つ持っています。　
人工衛星や科学技術が発達した現代に至っては、地球上にあるものだけではなく、宇宙やミクロの世界でさえも目で見ることができるようになりました。

今から百年前には「見えなかったもの」「見えなかった世...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>神秘学</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/clip-awadama-ao.jpg" width="100" height="161" alt="" class="pict" /><br />
<span style="color:#999999"><br />
私たち人間は、ものを見る「目」を二つ持っています。　<br />
人工衛星や科学技術が発達した現代に至っては、地球上にあるものだけではなく、宇宙やミクロの世界でさえも目で見ることができるようになりました。<br />
<br />
今から百年前には「見えなかったもの」「見えなかった世界」が、「見える」ようになったわけです。<br />
しかし、人間の人体機能や生命のあり方が百年前と比べて、進歩や変化したのかといえばそんなことはありません。<br />
寿命は延びたかもしれませんが、近代化時代に生きる私たちの各器官はむしろ、百年前と比べて劣化…退化していることさえ考えられるのではないでしょうか。<br />
<br />
アフリカのアマゾン部落に住む人々の視力は、４〜５．０もあるといいます。<br />
また自然と共に暮らしている人々の聴力は非常に優れていて、山を越えて聞こえてくるかすかな口笛のトーンを聞き分け、メッセージとして理解することができるのだそうです。<br />
<br />
<br />
つい最近、夏休みを過ごしている小学生の娘と過ごしたときのことです。<br />
私は、娘の見る力を司る脳の命令の弱さに驚きました。<br />
娘には、目の前にあるものが見えない…認識されていない、という状況がよくあるのだと分かったのです。<br />
<br />
「メリーポピンズ」に登場する魔女のお手伝いさんは、「目の前にあるのに見えない」大人の頑なな心理をうまく捉えて、歌にしています。<br />
娘の例をとって、「目の前にあるのに見えない」ということがどのようなことかを、私も考えてみました。<br />
<br />
<br />
<strong><span style="color:#CC33FF">1度目の驚き</span></strong><br />
<br />
私たちはレストランへ入り、ランチを注文しました。<br />
しばらくの間、私たちは日常の出来事を話していました。<br />
昨日の出来事を夢中になって話している彼女の前に、大好物のコーンスープが運ばれてきました。<br />
彼女はスープ皿が目の前に置かれたのを確認し、少し間をおいてから再び話し始めました。ところが彼女は、いっこうにスープを飲もうとしません。私は彼女に言いました。<br />
「コーンスープ、冷めちゃうよ」<br />
すると彼女は、ハッとして目の前のスープ皿に目を移し、驚いていいました。<br />
「えぇ〜〜！あったんだぁ！　知らなかった！」<br />
私は驚きながら言いました。<br />
「知らなかったって、さっきあなた自分でお皿を見てたでしょう！？」<br />
「…？！　そうだっけ？　何か持ってきたと思ったけど、コーンスープだとは知らなかったも〜ん！」<br />
<br />
彼女の目に「何か」という「お皿」は見えていたけど、彼女の脳は無視していました。<br />
「大好きないい匂いのコーンスープが来たよ！食べなさい！」というコマンドを、脳は出していなかったのでした。<br />
つまり、彼女の目には「食べるコーンスープ」としては映っていなかったわけです！<br />
<br />
<br />
<span style="color:#CC33FF"><strong>2度目の驚き</strong></span><br />
<br />
その夜、食事が一段落してから私は、洗面所の棚の片付けをしました。<br />
洗顔クリームや綿棒などを入れている箱の周辺を整頓したのです。<br />
しばらくして、娘が訊ねてきました。<br />
「ねえお母さん、水色のプール用の小物入れ、どこにしまったの？」<br />
「どこに置いてあったの？」<br />
「お母さんがさっき片付けた箱のところ！」<br />
「お母さんしまってなんかないわよ、あるはずだから良く見てみなさい」<br />
ところが娘は<br />
「ねぇ〜、ないってば！」<br />
しぶしぶ私は立ち上がって、洗面所へと行きました。<br />
娘が探す箱の中には確かに小物入れはありませんでした。しかしすぐ隣のタオルの横に視線を移せば、そこにはちゃんと小物入れはあるのです。<br />
私は驚いて言いました。<br />
「ねえ、本当にないと言うの？？」<br />
「ないでしょ！」<br />
仕方なく私は小物入れのある場所を指差しました。すると…<br />
「え〜〜ぇ、こんなところにあるぅ〜〜！　こっちまで目に入んないよ！」<br />
<img src="images/jewel3.JPG" width="192" height="256" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
娘の視野はそれほどまでに狭いのでしょうか！？<br />
彼女の脳は「見る」場所だけをコマンドし、「そこにない場合は、周辺にまで視野を広げて探してみなさい」という命令を出しませんでした。<br />
だから彼女の「目」に小物入れは映っているのに、「脳」はその物体が自分の探しているものだ、という認識が出来なかったのかもしれません。<br />
<br />
<br />
探し物が目の前にあるのに、見つけられずに困ったこと、目に見えているはずのものが、脳に見落とされてしまっていることなど、このような経験は誰もが日常的にしていることです。<br />
宇宙やミクロの世界まで見えるようになったというのに、私たち人間の「目」は頼りなく、信頼のおけない不確かなものなのです。<br />
<img src="images/pic2.JPG" width="180" height="333" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
「目」に映るものだけを信頼して生きることは、それらのことから、とても危険なことだと理解できます。<br />
「目」も「脳」も万能ではないのです。<br />
そしてそのような不確かなものを盾にして、人が人を中傷したり、責めたりすることはまったくもって愚かなことだと思うのです。<br />
<br />
私たち人間の周辺には、「目にうつる世界」と「目にうつらないもう一つの世界」とが存在しています。<br />
<br />
目に映らず、耳に聞こえないという別の世界では、人間の持つ五感は機能は頼りになる器官ではありません。<br />
実体のないものが主導権を握るのであって、「気」や「念」、「祈り」や「精神」、そしてまた「こころ」や「神」のように、捉えることが難しいものが存在している世界なのです。<br />
<br />
そしてその目に見えない世界でも、自分以外の他者は存在するのですから、当然そこでは対話が交わされることもあるのです。<br />
<br />
ヘルメス哲学者（錬金術哲学者）の一人であるルランドゥスは、次のように述べました。<br />
<br />
<span style="color:#0099CC">「ある者が、目には見えない他者との内的な対話を交わす場合、たとえば自分が呼びかけた神と、あるいは自分自身と、あるいは自分自身の善き守護天使と対話をかわす場合、それが『瞑想』である。」</span><br />
ユングは、それを<span style="color:#FF0000"><strong>「無意識の対決」</strong></span>と呼んでいるのです。<br />
<br />
もし私が娘の「見えてるのに見えない目」の諸事情に対して、怒りや憤りを感じるようであれば、それは娘に対しての怒りなのではなく、私自身の無意識に対する怒りとして捉えるべきなのではないかと、私は考えています。<br />
<br />
目に見えない世界を見ることができるのは、いつの時代も、人間についている２つの「目」なのではなく、「精神統一」「結合」された自分に備わっている「こころの目」であり、「未来を夢見る目」なのです。<br />
<br />
「目の前にあるのに見えない」という状況があることを、自分が認識し、認めてあげて受け入れる、ことが始まりとなり、人間の心は成長と自己統一に向かって歩みだすことが可能となるのではないでしょうか。<br />
<br />
娘にそのことを教えてあげられたことは嬉しいことでした。<br />
と同時に、娘にとっても精神的成長の一歩が始まったのだということなのではないでしょうか。</span><br />
<br />
<img src="images/tarot.JPG" width="192" height="163" alt="" class="pict" />]]></content></entry><entry><title>車輪</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=765280" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=765280</id><issued>2008-07-31T08:00:09+09:00</issued><modified>2008-07-30T23:04:16Z</modified><created>2008-07-30T23:00:09Z</created><summary>マヤの神秘と無意識の真実との対応を書こうと思ってから、とうとうひと月が過ぎてしまいました。

現在、私の車輪は南方からやってくる強い南風に、勢いよくあおられています。
車輪の回転速度が増していけばいくほど、中心はまるで動いていないかのようにそこに留まり...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>無意識の真実</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#9966CC">マヤの神秘と無意識の真実との対応を書こうと思ってから、とうとうひと月が過ぎてしまいました。<br />
<br />
現在、私の車輪は南方からやってくる強い南風に、勢いよくあおられています。<br />
車輪の回転速度が増していけばいくほど、中心はまるで動いていないかのようにそこに留まりつづけます。<br />
<br />
中心は静止しているときと同じようにはっきりと目に映ります。<br />
しかし決定的に違うのは、中心は「動いて回転している」こと、そして「さわれない」ことです。<br />
点検をしようにも、回転している車輪を修理することはできません。<br />
<br />
人間は肉体とともに生きている以上、最低限食事をとるとか排泄するとかと同じように、しなければならない現実に直面して日常をおくります。<br />
肉体に囚われて生活しなくてはなりません。<br />
<br />
私の無意識は車輪の中心にとどまっています。<br />
<br />
私はその中心がなければ、車輪が回転できないことを知っています。と同時に、それは中心が回転している以上、さわることも、静かに点検することもできないことを意味しています。<br />
<br />
そのような状況は、本来の私の使命にとって実は妨げとなります。<br />
車輪の中心を注意深く観察し、点検し、中心である無意識がどのように変化しているのかを調べ、深く掘り下げて人類の遺産と照らし合わせる…ことや、世に伝えることが出来ないからです。<br />
何とも皮肉なことです。<br />
<br />
というわけで、マヤ文明の伝承と対応させた真理の発見を、言葉として綴ることが出来ないままでいます。<br />
<br />
それらは私の脳の記憶に留まっていて、紙片となって散らばっているに過ぎず、消化不良をおこすか、ぼろぼろと零れ落ちてゆく記憶の断片を、拾い集めながらしっかりと握っていることしか出来ない状態です。<br />
情けないやら悲しいやら・・・<br />
<br />
少し時間が必要です。<br />
そして休息も必要です。<br />
暑い夏、もう少し涼しくさえなってくれれば、精神も落ち着くのにと思うこの頃です。(^_^;)</span>]]></content></entry><entry><title>音楽の神秘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=753554" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=753554</id><issued>2008-07-06T15:19:11+09:00</issued><modified>2008-07-06T06:30:51Z</modified><created>2008-07-06T06:19:11Z</created><summary>音楽には魂があります。
それは詩と同様言霊として歌詞に込められると同時に、音階を通して「音」の響きとメロディー自体にも込められている魂のメッセージだからです。

以前にもブログで書きましたので、魂についてはそちらを読んでいただくとして、今回は音の不思議...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>学問と神秘</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[音楽には魂があります。<br />
それは詩と同様言霊として歌詞に込められると同時に、音階を通して「音」の響きとメロディー自体にも込められている魂のメッセージだからです。<br />
<br />
以前にもブログで書きましたので、魂についてはそちらを読んでいただくとして、今回は音の不思議について少し書いてみます。<br />
<br />
<a href="http://blog.tane1q.com/?eid=30098" target="_blank"><span style="color:#00CCFF">「何故音楽が人の心や魂を揺さぶるのか？」</span></a><br />
<br />
私は時々「詩」を書くのですが、その詩となる言葉は自分の思考から生み出した産物ではありません。<br />
私の場合どんなに書こうと頑張ってみても、結果は徒労に終わります。<br />
<br />
けれどある時突然に言葉が連なってふっと湧いて出てくることがあります。それはまるで宇宙の無重力空間を言葉が浮いて出てくるような感じが天からおりてきて、私の視線は宙を掴むような形で浮かんできた言葉を書きとめていく…というそんな感じです。<br />
その瞬間はとても不思議な感覚に包まれます。<br />
<br />
そして言葉は連なり、組み合わされ、詩となって生まれるように思います。<br />
<img src="images/j0420776.JPG" width="165" height="149" alt="" class="pict" /><br />
<br />
またメロディーのもととなる「音」も同じような形で訪れてくるものだと思います。<br />
<br />
作曲をするという行為は絵を創作ときのように、何もないところに生み出されてくる<span style="color:#9933FF">「音の命」</span>として誕生するのです。音の命を持った「音階」は、作曲家によって魂を吹き込まれます。無意識につぶやいた音がつながりあったメロディー、詩のように宙を泳ぐようにして突然現われた音の集合体、それらを敏感に受けとめて書き留めておくことができれば、その人自身が感じた宇宙からのメッセージを曲という形で生み出すことができるのだと思うのです。　<br />
そしておたまじゃくしとして五線符の上に並べられ、リズムや音の長さなど手を加えられて「音」は曲となり、作曲家の魂がこめられた時点で「音の命」としてこの世に誕生するのです。<br />
<br />
<br />
ところで、「音」を神的な源泉とした世界であり、至高の存在によって生み出されるものである。と考えていた人がいます。<br />
ヨーロッパ19世紀初頭ピュタゴラス主義者として、好奇心に駆られた聖人として、また神秘家として名を馳せたポール・フランソワ・ガスパール・ラキュリア神父という人です。ラキュリアは音楽の象徴に興味を抱き、神学的な考察によって神の７つの属性を音と数に対応させ、さらに音階は天体に属するとしてその思想を形作っていきました。<br />
<br />
<span style="color:#996600">１：ド：赤色：生命…木星<br />
２：レ：橙色：自由…火星<br />
３：ミ：黄色：調和…太陽<br />
４：ファ：緑：聖性…金星<br />
５：ソ：青：知恵…水星<br />
６：ラ：藍色：正義…月<br />
７：シ：紫：永遠…土星</span><br />
<br />
<br />
ユダヤ人である哲学者フィロンによると、「音楽は世界の本質を直接啓示するもの」であり、「神の言葉、御言葉、神性…つまり、アポロンの竪琴によって奏でられる永遠の七音階、天体運動の旋律的な強調の規律」である。のだそうです。<br />
<br />
音楽は知恵の同義語として認められるべきもので、その源泉は超個人的な世界のうちにあるのだと言われています。<br />
<br />
偉大な作曲家ベートーベンの作品「弦楽四重奏曲 第15番 イ短調（作品番号132）」の第３楽章は、全体のクライマックスに位置していて、「回復者から神に捧げる感謝の歌」と題されています。この楽章は、ベートーヴェンが恐れていた重病から快復した後に作曲されたそうですが、　モルト・アダージョを旧約聖書に登場するイザヤの神秘的ヴィジョンに比較したと伝えられています。　また、作品番号１３０「弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調」の第5楽章カヴァティーナについて、「カヴァティーナ」とは叙情的なアリアを指し、その名の通り非常に美しい旋律を持つと言われ、ベートーベンは次のように述べています。<br />
<br />
<span style="color:#FF99FF">「これは苦悩というものを知らない魂、そして無限の欠如にしか苦しむことのない魂、そのような魂の声である」</span><br />
この２曲ともにベートーベンはニコライ・ガリツィン伯爵に献呈されました。<br />
<img src="images/j0431326.jpg" width="253" height="256" alt="" class="pict" /><br />
<br />
ベートーベンには音楽の神の本質が見えていたのだと私は思います。<br />
曲やメロディーには理由と秘儀が隠されていて、魂の叫びが込められており、人的な力ではどうしようもすることのできない超自然に身をまかせるような、不可知の雲を視て感じ取るような世界に、ベートーベンは独りたたずみながら、音楽の神様との対話を通して知りえた叡智をこの世に誕生させてくれたのではないでしょうか。<br />
<br />
<br />
キリスト教神秘主義者であるサン・マルタンによると、音楽には私たち人間を宇宙の霊の領域へと解放する力もあるのだそうです。宇宙の霊の領域とは、純粋な言葉によって純化されないうちは注意すべき危険な領域であるのですが、ひとたび純化されれば、私たちをさらに天国の神の領域へと導いてくれるものだといいます。<br />
　また、音楽は私たちのうちに内的能力の領域を開いてくれるとも言われています。人間の口から音を発することで、奇跡を起こすような存在となりうるのだとも！<br />
<br />
<br />
私たち人間にとって音楽と同化するということは、ある意味性的な絶頂に達する瞬間に近い興奮が得られるとも言えるのです。<br />
コンサート会場での熱狂的な一体化を味わったことのある人ならば、それが何を意味するのかを理解するのは容易なはずです。<br />
<br />
光に照らし出された舞台では、己の意志を断念し、神の意志を奏でる「神の竪琴」という楽器として、人間は登場するのです。そして幕開けとともに会場・劇場の空気を共有する聴き手側個人は、全体の一部となり、音に込められた物語を一緒にたどりながら、クライマックスへの階段を昇り始めます。<br />
<br />
音に込められた音魂は、音楽家や演奏家という送り手の奏でる「音」を通して、聴き手側にばら撒かれます。そして空気と音楽を共有した個々は一体感を体感し、魂の叫びを受け取ります。<br />
宇宙を感じるとも言えるこの瞬間、そこでは人間の日常は消え去り、苦悩や悪からも遠ざかり、音楽の世界を喜び、そして潤うのです。<br />
<img src="images/j04227210.JPG" width="256" height="256" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
音楽の神は、私たちに音楽を愛する心を種として吹き込まれています。<br />
その種の花を咲かせるとは、音楽との一体化によって自らの命と存在の重さを知ることにつながっています。音楽を通して神を感じ、神の竪琴として音楽を奏でる、歌を生み出す、純粋な精神と魂を叫び、何よりも光と音の世界を愛することを、神は満足されるのだと私たちは知るべきなのです。<br />
<br />
何気ない日常に疲れたり、重荷を感じたり、苦悩を感じたとき、人は音楽の世界に浸ることで自分の純粋な精神を解放することができるのだと思います。<br />
そのとき人は静かなる時のなかで、音楽の神とともに過ごすことができ、安らぎを得ることができるのではないでしょうか。<br />
<br />
]]></content></entry><entry><title>不思議のぬし神さま</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=745854" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=745854</id><issued>2008-06-21T12:12:47+09:00</issued><modified>2008-06-21T03:26:24Z</modified><created>2008-06-21T03:12:47Z</created><summary>拝啓みなさま　日常お変わりございませんか？

たくさんの不幸な出来事が　日本人の生活を脅かしています。
予測不可能な事件・災害が　幸せな国民の人生を一変させてしまいます。
テレビに映し出されるのは人の苦しみの渦と、道理に叶わない社会の歪と、腐りかかった...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>魔法</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#339933"><span style="color:#FFFFFF">拝啓みなさま　日常お変わりございませんか？</span><br />
<br />
たくさんの不幸な出来事が　日本人の生活を脅かしています。<br />
予測不可能な事件・災害が　幸せな国民の人生を一変させてしまいます。<br />
テレビに映し出されるのは人の苦しみの渦と、道理に叶わない社会の歪と、腐りかかった国政の膿と、何も知らない集団の愚かさばかり･･･<br />
<br />
<img src="images/icon_chou03.gif" width="85" height="83" alt="" class="pict" /><br />
<br />
噂に聞くところ携帯電話がさらに進化しているようですね。<br />
その一方で子どもに携帯電話を所持させることを規制しようとする。<br />
日本人の価値観と正義心理に大きな変化が出ているのを感じているこの頃です。　携帯電話ばかりではありません。　人間が利便性を求めて作り出したはずの便利グッズが、社会的な評価のトップ位置を占めた時から、人間自らの首を絞め始めるという現象があちらこちらで起こっているようです。<br />
<br />
<br />
昔、文通という慣習があったのを皆さんは知っていますか？<br />
知らない世界の会ったこともない人と、手紙で交流を深めていって生涯の友となる一つの素晴らしい手段でした。時には文通後結婚に至るというケースもありました。<br />
今若い世代の話題にのぼっている、会ったことのない「メル友」との交流は、「文通」と本質的に何処が違うのでしょう？？！<br />
<br />
大人になって目新しい便利グッズが世の中に出始めると、愚かな人間はそれがさも新しいことのように考えて、問題提議に意識を集めては規制に躍起になりがちですが、実は昔からある制度や慣習の別バージョンだということに気づきません。<br />
まったく愚かなことです。<br />
<br />
戦争がやまないのは何故か！という問いに、正確な答えを持つようにならない限り、人類の愚かさは繰り返されると偉人はいいます。<br />
愚かな人たちの仲間に入るくらいなら、変人呼ばわりされても自分の立ち位置に留まりたいと願う人たちの仲間に入りたい！と私は思うのです。<br />
<br />
最近の予測不可能ないくつかの出来事やニュースが、みなさんには偶然的で自然発生的なものだと感じられますか？<br />
<br />
秋葉の殺傷事件と全体の半数が２０代を占めるという硫化水素による自殺者の増加、中国・四川大地震に呼応するような東北地震災害、宮崎勤死刑執行、産婦人科・小児科の病院、医師不足なのに少子化対策…<br />
宇宙ステーションから帰還し「すべての瞬間が楽しかった。もう少し宇宙にいたかった」と語った宇宙飛行士の星出さん。<br />
<img src="images/ico_bubble_b2.gif" width="29" height="29" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
今を捉える、国を捉える、現代という時代を捉える、季節を捉える、世界を捉える・・・様々な捉え方によって物事を考えるという思考形態を持ちあわせている人は幸いです。　多くの可能性を考えながら事実や現象を検証したり考査したり出来るからです。<br />
また、見たままの物質的な世界のあり方に振り回されない視点を持ち合わせている人は幸いです。人が何かを考えて述べたとき、その人の意見を自分の考えと混ぜ合わせずに聞くことができる人は幸いです。<br />
<br />
時は近づきつつあります。<br />
その「時」を感じることが出来る人は幸いです。<br />
<br />
その「時」とは<br />
終末の時でしょうか？<br />
アセンションの時でしょうか？<br />
死・別れの時でしょうか？<br />
宇宙未来への「きぼう」の時でしょうか？<br />
世界戦争への時でしょうか？<br />
世界平和への時でしょうか？<br />
<br />
絶望の時でしょうか？<br />
<img src="images/aztec4.JPG" width="320" height="261" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<span style="color:#FFFF00">耳を傾けてみてください！<br />
地球が発している声に！</span><br />
<br />
私のサイトを開いてくれた皆さんに、私が感じる神秘の不思議ぬしとの会話の一つをお教えしましょう。<br />
<br />
<span style="color:#CC99FF">遠くの彼方からどんよりした真っ黒の雨雲が流れ込んできて、わずかにオレンジ色の月影が感じられていた真夜中の暗い空を、大きく飲み込むように空一面に広がってきたとき、地面が大きく深呼吸する音がほんの一瞬聞こえます。<br />
<br />
そして大地が雲の鼓動を受け止める準備をして静まりかえります。<br />
<br />
偉大な瞬間です。<br />
<br />
そしてそのわずか数秒後、天から落ちる一番最初の雨粒が地上に落ちた音を耳にできる瞬間があります。<br />
<br />
その音は「ポツン」でもなく「ポタリ」でもなく、「ツン」でもありません。<br />
<br />
それまで渇いていた空中の気が天から地上に落ちるまでの一粒の水滴から水分を奪いとって蒸発させようとするため、地上に落ちる以前に空中でなくなってしまう水滴がいくつもあるのです。<br />
<br />
最初の雨粒が大地に落ちる瞬間までには、実は自然界の多くのストーリーが既に展開されているのです。<br />
そしてようやく地上に落ちてきた最初の雨粒は、まるで月に初めて立った宇宙飛行士のようです。<br />
<br />
誇らしげで、凛としていて、感動の驚きをもっています。<br />
だから音だって自ずと違っているのです。<br />
<br />
「ポツン」でもなく、「ポタッ」でもまったくない、それはまるで異次元空間から訪問してきた「声」に近い「音」なのです。<br />
<br />
そのような声音を聞くチャンスなど「聞こう」とする意思がない限りほとんどありません。意志があっても、チャンスがくるとも限りません。<br />
<br />
だからそこには「聞く」側の絶対的な意志と、「聞かせる」側の自然環境が整わなければ体験は成立しません。<br />
<br />
<br />
その声音を聞いたとて、世の中生きていくために何の徳にも役にも立たないと人は思います。<br />
<br />
私もかつてはそうでした。<br />
しかし今は違います。<br />
<br />
異次元空間からの贈り物とも言えるあの素晴らしい声音を耳にした瞬間に、どれだけの自己発見と真実の学びと偉大な教えを得たかを考えると、生きていくために最も大切なことを教えてもらったとさえ自負できるように感じるのです。<br />
<br />
だから私が聞いたその素晴らしい「声音」音を、皆様に教えるわけにはいきません。<br />
<br />
私は自然のぬしではないから。<br />
私の感性が正しいとは限らないから。<br />
私の無意識が浄化され続けているかどうか保障はないから。<br />
<br />
不思議のぬし神さまに　そっと教えてもらったのです。<br />
<br />
ただそれでも、その音を皆様にも同じように体験してもらいたいとは願うのです。</span><br />
<br />
拝啓、みなさま<br />
<br />
私が体験した地上に到達した最初の雨粒の声音が、どのようなものだったか知りたいと思われるでしょうか？<br />
それともべつに…！と思われるでしょうか？<br />
<br />
地震災害が起きてしまうほんの瞬間前の大地の声音が、どのようなものかを知りたいと思われるでしょうか？<br />
それともそんなこと不可能だよ「なまず」じゃあるまいし…！と思われるでしょうか？<br />
<br />
台風や大津波による災害がやってくる少し前の空気が、どのように変化しているのかを知りたいと思われるでしょうか？<br />
それともそんな予知能力なんて人間にはない…！と思われるでしょうか？<br />
<br />
拝啓みなさま、是非考えてみてください。<br />
<br />
「超」能力とは何なのか。<br />
「超自然現象」とは何なのか。<br />
「人智を超える働き」とは何か。<br />
「地球外生命体」とは何か。<br />
「無意識」にある能力とは何か。<br />
<br />
どれもみな本当は私たち人間の身近にある世界のことなのですから。</span>]]></content></entry><entry><title>残虐性</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=740459" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=740459</id><issued>2008-06-11T11:14:55+09:00</issued><modified>2008-06-11T02:24:00Z</modified><created>2008-06-11T02:14:55Z</created><summary>秋葉原の無差別殺傷事件が報道番組のトップをしめ、世間を賑わせています。
現実は加藤智容疑者が望んだとおり、この事件についての話題が新聞の一面をしめ、テレビではどのチャンネルも競って事件と彼についての詳細を取り上げています。
容疑者の酷さ惨さ、動機と生い...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>こころの事</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#666699">秋葉原の無差別殺傷事件が報道番組のトップをしめ、世間を賑わせています。<br />
現実は加藤智容疑者が望んだとおり、この事件についての話題が新聞の一面をしめ、テレビではどのチャンネルも競って事件と彼についての詳細を取り上げています。<br />
容疑者の酷さ惨さ、動機と生い立ちに至るまであらゆる角度から検証し、事件の形相をまるで視聴者の好奇心を煽るかのように伝えています。<br />
<br />
そして誰もが口をそろえてコメントします。<br />
「人間のすることではない」<br />
「別の顔を持つ男」<br />
<br />
現場に居合わせた医師のひとりは、地獄絵図のように血の海となった現実に対して、医師である自分が気が動転してしまわないようつとめ、傷を負っている人々の対処に精一杯あたった。と述べていました。<br />
<br />
確かに本当に恐ろしい事件です。無差別殺人というテロにも似た行為であるとともに、どのような精神状態であるかが理解できないほどに「人を殺す」ことに躊躇いがないような事件でした。<br />
<br />
<img src="images/fukurokss.gif" width="77" height="99" alt="" class="pict" /><br />
<br />
原始キリスト教では、「善と悪」両者の力を神の手に委ねていたことを記載する書物があります。<br />
右手はキリストとして、左手はサタンとして神が世界を支配していたともあります。<br />
今日の私たちは、光に魅了され、光の中に生きることが当たり前になり、明るい側面にのみ引き寄せられて生きています。<br />
いつしか人は悪魔を認める「視力」と「感」を手放してしまい、もはや地上にいる人間には暗闇とデーモニッシュな側面を持つことなど認められない…つまりありえないこととしてしか認識できなくなってしまったのです。<br />
<br />
しかし「悪」は決して無くなったわけではありません。<br />
「悪」は行き場を失い、暗闇をさまよい、心の闇にのみ住み着くことができるという立場を利用して確立し、世の中にその存在をアピールすることとなりました。<br />
<br />
旧約聖書においては、悪もまた神のひとつの側面であると見なされています。そしてまた、私たち人間は神に似せて造られたともあります。<br />
つまり神の似姿として右手に善を左手に悪を持つ自由意思を与えられた存在であるということなのです。<br />
そして右手の力を使うか左手の力を使うかは、その人の心の深層にある無意識の力と大きく関わりあっているのです。<br />
<br />
<br />
私たちの心にある個人的な感情や頑迷さ、復讐心や暴力、混乱や犯罪行為でさえもが、右手の理性によってコントロールされています。<br />
しかし、ずっと重荷やストレスをため続けて生きている悲しい運命を背負っている人たちにとっては、生きることは苦しみの連続だということを受け入れられる心の準備ができません。<br />
左手の力に圧倒され、いつしか巨大なスケールで噴出しようとしている休眠火山の宿主でもあることに突然気づかされるのです。早くに気づけばいいのですが、遅すぎるとついには普通の意識と理性では抑制できないほどのエネルギーが一気に流れ出てしまうということでしょう。<br />
悪魔の元型的な力が勝利してしまうのです。<br />
<br />
忘れてはならないのは、残虐性は誰の心にもあるということです。<br />
アンドレ・ジイドによれば、<span style="color:#FF0000">「『悪』とは、人が報復としてなすことだ」</span>そうです。<br />
<br />
子どもを殺してしまう親、親を殺してしまう子、無差別に人を殺す人たちの心理には、精神異常だけで片付けてしまうにはもったいない多くの真理が隠れています。<br />
<br />
今回のような残虐な事件で、なぜ彼はこのような犯行に至ったのか理由はもちろん様々だと思いますが、その中に「両親への仕返し」「見せしめ」という復讐を兼ねた恨みの対価としての動機があったのではないかと私は考えています。<br />
彼の生い立ちに少なからずその要素があったことが認められるとしたら、強い反抗と復讐心を心の奥底にためこんで我慢し続け、そのはけ口がどこにも得られないままに大爆発とともに噴火してしまったのも大きな原因の一つにも思えるのです。<br />
このような惨い事件を犯した子の親が受けて立たなければならない世間の非難、冷たい視線、崖から突き落とすかのような親が持つ社会的信頼の喪失…etc。<br />
「俺を生んだ俺の親、ざまあみろ！」<br />
悪魔の勝利の囁きが彼の腹の底から聞こえてきたのは、私だけでしょうか!?<br />
<br />
<img src="images/child5_14.gif" width="46" height="65" alt="" class="pict" /><br />
<br />
特に母親に対しては、子として逆らえないという弱い立場を利用され、自分の希望や夢を無惨にも砕かれたという思いが強かったのでしょう。<br />
二人の子育て真っ最中であるという立場上、驚くような仕方で子どもに親の価値観や理想、夢やしつけを強要している親を見かけることが多々あります。<br />
そのような親を持つ子には、決まって「良い子」や「努力する子」が多いのが特徴です。<br />
良い子を演じることは、子どもにとってそんなに大変なことではありません。<br />
親や先生、近所や友達に「良い子」だと思われるのは悪い気はしないからです。<br />
しかし<span style="color:#FFFF00">誰かが「演じている」と気づいてくれるまで、その子は本当の自分を出すことができません</span>。<br />
いつしかその子は「演じる」ことに疲れ、ついには引き籠ったり、反抗と抵抗を暴力によって表現したりしながら、自分を取り戻す作業に入っていきます。でもそれが出来るうちはまだいいのかもしれません。<br />
この容疑者にはそれすらも出来ない現実があったのかもしれません。<br />
<img src="images/child5_11.gif" width="46" height="65" alt="" class="pict" /><br />
<br />
他人を非難したり中傷したりする人々の顔には、自分は自分の行動を完全にコントロールできると思い込んでいる勝利の表情が見受けられます。このような自己満足と優越感に浸っていられるうちは、悪の本質を見抜くことはできません。<br />
<br />
ゲーテはその複雑でアンビバレントな特質を古典的に表現しています。<br />
「悪魔とは、邪悪にのみ働く力でありながら、善を生み出す力である」と。<br />
<br />
ユング心理学の研究者として知られるサリー・ニコルズは述べています。<br />
「多くの心理学者の意見が一致していることは、私たち自身の悪魔的な側面を無視したことが、現代世界に生じている伏魔殿的な混乱の主要な原因であるということだ。私たち自身の個人的な感情主義、頑迷さ、復讐心、暴力、そして混乱が、世界戦争や、暴動、大火災やさまざまな破壊という形で、今や巨大なスケールで噴出しようとしている。」<br />
<br />
秋葉殺傷事件の容疑者の心は、ぎりぎりの状況で保持されていたのでしょう。親子関係、人間関係、職場での問題などを抱えたまま。<br />
自分という存在を誰にも受け入れてもらえなかった彼･･･右手にいたはずの善なる天使は、左手の力に屈服して座を明け渡してしまったのでしょう。<br />
<br />
「憑依」という言葉が死語になっている現代、その種の実情が油断ならないことに誰も気づきません。<br />
本能に敏感な人は、何かに取り憑かれている人に出会うと本能的に嫌悪感を感じたり、恐れを感じ取ります。それは悪魔の匂いがするからなのでしょう。<br />
また、心が壊れかかっている人の表情を読み取ることも可能です。自然であるものが不自然であることが認識できるからです。<br />
<br />
被害にあわれた方々のご冥福をお祈りするとともに、二度とこのような事件がおこらないようにするためには、何をどう考えたらいいのか、どうすれば噴火せずにとどめられるのかを学ぶことはとても大切なことだと思います。</span>]]></content></entry><entry><title>無意識に国境はない！</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=734317" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=734317</id><issued>2008-05-30T22:03:55+09:00</issued><modified>2008-05-30T13:12:12Z</modified><created>2008-05-30T13:03:55Z</created><summary>私のサイトには、海外の様々な国から何回もアクセスして見てくださる方がいらっしゃいます。

「無意識」というキーワードを検索すれば、検索の上位結果にのるからかもしれません。

日本をトップとして
「アメリカ」「韓国」「ドイツ」「フランス」「英国」「カナダ...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>無意識の真実</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[私のサイトには、海外の様々な国から何回もアクセスして見てくださる方がいらっしゃいます。<br />
<br />
「無意識」というキーワードを検索すれば、検索の上位結果にのるからかもしれません。<br />
<br />
日本をトップとして<br />
<span style="color:#CC66FF">「アメリカ」「韓国」「ドイツ」「フランス」「英国」「カナダ」「ブラジル」「オーストラリア」「スイス」「ニュージーランド」「タイ」「メキシコ」</span>と続いています。<br />
<br />
中でもブラジルとスイス、メキシコの国から訪問してくださる方は平均４ページ以上もご覧下さっていて、大変嬉しく思っています。<br />
<br />
<img src="images/j0223787.gif" width="125" height="69" alt="" class="pict" /><br />
<br />
今年の５月で「無意識の世界」のHPを立ち上げて２年半になります。<br />
<br />
それまでは自分のノートに思いや不思議を綴ったり、小説を書いては投稿したりしていましたが、サイトを制作して更新するようになってからは、自分の学んで感じたことを伝えてゆく面白さと読んでくださる人がいることの嬉しさが募り、こうして忙しくても継続してくることが出来たのだと今は思っています。<br />
<br />
<br />
１万件以上のアクセスに対して半数以上の方がリターニングビジターとして再度サイトを訪問してくださっています。<br />
そのことは何よりも私の大きな励みとなっています。<br />
<br />
現代日本人は様々な国に散らばって生活しています。<br />
仕事や留学であるかもしれませんし、旅行中か移住者かもしれません。<br />
自分の目標に向かっているからかもしれませんし、その国に惚れこんでしまったからかもしれません。理由は色々でしょうけれど、中には日本や日本人の考え方が嫌だからという理由もあるかもしれません。<br />
<br />
いずれにしても、海外に生活することで日本を客観的に見ることができるようになることは事実ですし、長所も短所も理解できることは間違いありません。<br />
<br />
しかしどんなに国や土地が変わっても、人は心の故郷を忘れることはできません。<br />
<br />
<br />
自分の命が育まれた土地の匂い、母や友と歩いた道端の景色、甘くて苦い味の体験などどれをとっても人の意識から消え去ってしまうことはないはずなのです。<br />
<br />
それらのような「故郷体験」は、自我の意識が芽生えるとともに意識の奥底へと追いやられてしまうのです。記憶を繋ぐ信号の回路がしまい込まれ、忘却の彼方に同化してしまうものなら、それはそれで幸せなことかもしれませんが…。<br />
<br />
無意識という人の心の深層世界には、どの国に住むどんな人種の人であってもかつては体験したことのある懐かしい思い出や、世代や時代を超えて万人に共通する祖先の故郷体験などが、たくさん詰め込まれています。そこはまるで巨大な貯蔵庫のようです。<br />
<br />
私は無意識こそが、すべての世界に住む人類が訪れていつでも見ることの出来る共通の言語を持って展示している「図書館」か「蔵」のようなところだと考えています。<br />
<br />
<br />
私の体験は私だけが理解するものでも、私だけが特別に持つものでもありません。けれど「人間としての私」の体験から来る認識や知識などは知る価値など全くないものであり、ある意味では不用なものなのです。<br />
<br />
私が何を好きで、何を嫌いだとか、何が目標でどんな仕事をしていて、何が趣味だなんて万人の興味の対象になるはずがありません。<br />
<br />
それよりも、私の知りうる限りの無意識体験や認識経験、蔵から取り出した素晴らしい蔵書の内容のほうが、何にも増して素晴らしく価値あることだと私は信じています。<br />
<br />
ユングがボーリンゲンで過ごしていた時間を、私が同じように自分の部屋で共有することが出来ることを私は知っています。<br />
彼の伝えたかった心の真理が、永遠の真理であると私は信じています。<br />
<br />
外国からアクセスしてくださっている方へ、心をこめて感謝いたします。<br />
日本の小さな街から発信している小さな私の無意識の世界が、皆様の無意識を元気づけることが出来るよう、波動の琴線に触れることが出来るよう、頑張って更新していきたいと思っています。<br />
是非みなさまも心の故郷を忘れず、遠い世界で頑張ってください。<br />
<br />
<br />
またもしも日本人でなく外国に故郷を持つ方がご覧くださっているのなら、興味を持ってくださって本当にありがとう。<br />
<span style="color:#6699CC"><strong>無意識に国境はありません。<br />
いつでも私たちは仲間になれるからです</strong>。</span><br />
<br />
<img src="images/otya2.gif" width="120" height="160" alt="" class="pict" /><br />
<br />
みなさんほんとうにありがとう…。]]></content></entry><entry><title>人生と魂生</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=730527" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=730527</id><issued>2008-05-23T17:50:02+09:00</issued><modified>2008-05-23T08:54:37Z</modified><created>2008-05-23T08:50:02Z</created><summary>人生は色々な歩みかたがあります。
よく「前向き」で「楽天的」な生き方は健康的だと言われますし、「後ろ向き」で「ネガティブ」な生き方は歓迎されないとされています。

かといってどんなに前向きがいいとわかっていても、そう出来ない…どうしようもない・いかない...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>無意識の真実</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#CC99FF">人生は色々な歩みかたがあります。<br />
よく「前向き」で「楽天的」な生き方は健康的だと言われますし、「後ろ向き」で「ネガティブ」な生き方は歓迎されないとされています。<br />
<br />
かといってどんなに前向きがいいとわかっていても、そう出来ない…どうしようもない・いかないことは人生には多々ありますよね。<br />
心の向きをコントロールしたり、機嫌の舵を取ったりすることは、とても大変でむずかしいことだからなのでしょう。<br />
<br />
<img src="images/mama05.gif" width="53" height="130" alt="" class="pict" /><br />
<br />
人は無意識のうちに自分の明暗の性質を他人に投げかけていることにあまり気づきません。自分がどんなに明るく振舞っていても、実際に暗さで心がいっぱいのときは人に明るい印象を与えることはできません。<br />
<br />
同じように楽天的で思いやり溢れる人を演じようと一生懸命努力していても、実際が反対の素を多分に持っている場合は逆に精一杯無理している様子を相手に知らせてしまうことになります。<br />
<br />
そのように個人の歩き方や生き方そのものが人には見られてしまうことを、人は無意識に怖がってしまうため対面的に人は「隠そう」「誤魔化そう」としてしまうのです。<br />
<br />
<br />
<br />
ここに「欲」「徳」のない穏やかな精神を持って暮らしている人がいるとします。<br />
その人は損得勘定もしなければ上下関係によって人を観ることもしません。<br />
<br />
彼はただただ穏やかに、自然や動物・人をあるがままに受け入れて自分の歩く道をゆっくりと歩き続けています。<br />
その人にとっての人生はある意味自然と一体化しているわけですから、自然に逆らうような事象や心は正反対の動きとして認識されます。<br />
<br />
<br />
それは夏が暑いのは自然であり、雨が降ったり台風がおきたりすることも自然の一部として受け止める姿勢ですから、暑い夏だからといって夏を否定しながら生きることをしないわけですね。<br />
<br />
<br />
その人があるとき、一人の苦悩に満ちた人に出会ったとしましょう。<br />
<br />
<br />
さて問題です。<br />
彼はどのような心で苦悩に満ちた人を見つめるでしょうか？<br />
<br />
<br />
前向きがいいよ！楽天的がいい！<br />
自然に生きるのがいい！　あるがままに生きるのがいい！<br />
今は辛いけどいつか明るい日がやってくるよ！<br />
大変そうだね。大丈夫?!<br />
etc…<br />
<br />
そのように人を見るのが普通の人かもしれません。<br />
しかし彼は違います。<br />
<br />
彼は自然や動植物と一体になれる生き方をしているのですから、突如現われた苦悩の人に対しても自然であり続けるはずです。<br />
<br />
もしかしたら彼は自然に逆らわず、静かにその人に寄り添うかもしれません。<br />
遠くからそっと見守っているのかもしれません。<br />
苦悩を感じ取って、ただただ苦悩をともに共有して涙するかもしれません。<br />
<br />
彼は自分の正義や生き方を相手に押し付けたり、無理やり説明したり、主張したりなど決してしないのです。<br />
<br />
なぜなら人には苦悩が当たり前に訪れることを知っているからです。<br />
<br />
つまり、人には苦しんだり、悩んだり、辛くて暗いトンネルがあるのが自然であると理解しているので、それを正したり諭したりすることは意味のないことだと考えているのです。<br />
<br />
<img src="images/shikasmall.JPG" width="248" height="177" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
私は人の言動はあまり信用しませんが、人の目は信用しています。<br />
人の目には無意識的な要素がたくさん映し出されているからです。<br />
人生を「前向き」に歩こうと、「否定的」に歩こうと、私はいいと思っています。<br />
それがその人にとって必要な歩く道だからだと信じるからです。<br />
<br />
<br />
ただ、心の深層にある無意識は隠せないし誤魔化せません。<br />
どんなに繕ってみても、嘯いてみても、欺こうと誤魔化してみても、無意識にある魂の姿と生き方は隠せるものではないからです。<br />
それは「目」の瞳の中にちゃんと映し出されているのです。<br />
<br />
<br />
隠者や老賢者と呼ばれる類の人たちには、そのような瞳の奥に隠された魂の生を見ることが出来ると言われています。<br />
<br />
<br />
人生がどのように素晴らしいものであっても、どのように苦しく不幸なものであっても、それはその時だけのことです。<br />
一生そうであり続けることなど滅多にないからです。<br />
<br />
<br />
魂の生と道には嘘やごまかしがないことを思えば、自分の魂と手をつないでいる「無意識のこころの声」を大事にしながら、人生を送ることのほうが大切であることにもっと私たち人類は注意を払うことが大切なのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っています。</span>]]></content></entry><entry><title>現実と無意識</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=727519" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=727519</id><issued>2008-05-18T09:28:03+09:00</issued><modified>2008-05-18T00:34:44Z</modified><created>2008-05-18T00:28:03Z</created><summary>私たちが日常で知ることが出来ない「無意識」という深層の領域では、さまざまな変化や修練、想像や葛藤が日々行なわれています。

例えばある人が現実社会の中で、非常に厳しい状況におかれているとします。
人間関係に悩み、圧力や権力に服従し、時間に追われるまま体...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>無意識の真実</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#339966">私たちが日常で知ることが出来ない「無意識」という深層の領域では、さまざまな変化や修練、想像や葛藤が日々行なわれています。<br />
<br />
例えばある人が現実社会の中で、非常に厳しい状況におかれているとします。<br />
人間関係に悩み、圧力や権力に服従し、時間に追われるまま体力の限界に近づきつつある･･･とする彼は、疲労困憊の毎日にかろうじて睡眠をとる程度の休息しかありません。<br />
現実の意識下において彼は油断出来ない状況ですから、緊張によって精神が高ぶっていることは容易に推測できます。<br />
そんなとき普通の人であれば、それを現実として受け入れて精進するという方法によって自己認識を促し、また受け入れます。<br />
<br />
ところが無意識の力を理解している人であれば、異なる認識をとることが容易になります。<br />
それは現実に影響している油断出来ない状況をつくりだしているのは、少なからず無意識の影響によるところが大きいはずだ。という認識です。<br />
<br />
つまり、彼の現実を厳しくしているのは、何らかの意図によって目的が果たされるためであり、深層の無意識下では本来の彼自身の存在目的と意味が達せられるような仕組みが活発に機能していて、少なからずその影響が意識に伝達されているという推測がなされるということなのです。<br />
<br />
何らかの理解を促すため善と悪が戦う必要がある。とか、人間の心理が個々によって成立する以前に万人に共通する真理に基づいている元型があることを悟らせる。とか、人間の身体機能に寄り頼むことの危険性や物質主義に依存する意志の愚かさへ警告の鐘を鳴らしている。などが考えられるからです。<br />
<br />
無意識が彼に認識されることはなくとも、意識が無意識と連動していることに間違いがないことを理解するならば、彼の意識が何故そのような状況にあるのかを知る手がかりとなることが可能だからです。<br />
<br />
<img src="images/majyui.JPG" width="120" height="256" alt="" class="pict" /><br />
<br />
<br />
「錯覚」をみなさんは知っていますね？<br />
あれっ・・？？と不思議に思うような瞬間であったり、誤解か誤認によって自分の意識がそう思っていたりすることです。<br />
<br />
自分だけが他の人と違った視点によって物事や事象を捉えることを良しとする思考形態を持ち得ない人にとって、皆と異なる理解をしたときにはそれを「錯覚」や「妄想」として意識は処理しようとするのです。しかし、この「錯覚」や「妄想」がしっかり認識されるような意識の受容を認めている人にとって、それほど素晴らしい財宝はないということが理解されています。<br />
<br />
例えば芸術家や音楽家、作家や創作家がその領域の認識者だといえます。<br />
偉人・天才は神か何者かが上から降りてきて、彼らの精神を占領したとき作品が生まれたという表現をよくしています。<br />
<br />
ところが普通の人間にはその情報をキャッチする受け皿を持っていません。いえ正しくは、持っていないのではなく、持っているのに持っていることを知りません。<br />
<br />
空から一万円札がパラパラと降ってきているのに、箱を天にかざして拾おうとする人はごくわずかなのです。みんなその一万円札を横目に見てか見ないでか、文句を言いながら「この雨は何だか臭いなあ…」と呟いては通り過ぎていってしまうのです。もったいないことです！<br />
<br />
無意識にはそのような財宝がたくさん眠っています。<br />
トレジャーハンターであれば、喜んで大海に船を漕ぎ出すこと間違いなしです。<br />
<br />
私はその無意識の素晴らしさに魅了された一人として、財宝のありかを声を出して知らせています。<br />
<br />
しかし困難は続きます。<br />
<br />
一つ目の困難は、目に見えない一万円札をどのように知らせたらよいのか常に模索していることです。私には見える一万円札をどんなに箱いっぱいに受け取って幸せになっても、それをともに喜び合う人がいなければそれは幸せではありません。<br />
<br />
そしてもう一つの困難は、空から降ってくる一万円札が時折化けることです。その人が純粋な精神を持っていれば一万円札に見えるのですが、悪魔のような心を持っている人にとっては一万円札は蛇や呪いの人形のように邪悪なものに見えてしまうからです。それは受け取る人の心が一万円札に反射しているだけなのです。天から降ってくる一万円札は透き通った純金で出来ているようなものなので、箱を持っている人の意識が反映されてしまうのです。<br />
<br />
<img src="images/ross_b_blue100.jpg" width="100" height="100" alt="" class="pict" /><br />
<br />
困難は永遠に続きます。終焉を見ることはありません。<br />
<br />
無意識は常に私たちの身近にあるこころの真理を司っています。<br />
<br />
ほら！空を見上げてみてください。<br />
今日も空から透き通った純金と純銀の一万円札がパラパラと降っていますよ♪<br />
<br />
<img src="images/menekineko_s.gif" width="168" height="190" alt="" class="pict" /></span>]]></content></entry><entry><title>初対面の心理</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=726141" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=726141</id><issued>2008-05-15T17:46:32+09:00</issued><modified>2008-05-15T09:04:27Z</modified><created>2008-05-15T08:46:32Z</created><summary>最近多くの人と会話をすることがあり、ふと気がついたことがあります。
人のこころの反応は面白い…と。

初対面かほんの少し顔見知り程度の人と会話をするとき、みなさんはどうしますか？

もじもじしてあまり話せない人
会話をしようと懸命に話題を提供してみる人...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>こころの事</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[最近多くの人と会話をすることがあり、ふと気がついたことがあります。<br />
人のこころの反応は面白い…と。<br />
<br />
初対面かほんの少し顔見知り程度の人と会話をするとき、みなさんはどうしますか？<br />
<br />
もじもじしてあまり話せない人<br />
会話をしようと懸命に話題を提供してみる人<br />
話そうという気もおこらず、じっと黙っていられる人<br />
話しが続かなくて空気がしらけてしまうのに耐えられず場を去る人<br />
気さくにどんどんと相手の心を掴もうと話題を盛り上げていこうとする人<br />
<br />
<br />
性格や慣習などの様々な要素が組み合わさって、人は新しい出会いを体験していきます。そしてそこでは決まった方法や順序によって出会いが成立するのではないということを改めて発見したのです。<br />
<br />
初めて会った人から受ける印象や声のトーン、顔の表情から伺い知ることができるその人の性格の一部や癖などをチラッと横目で観察しながら、その人のこころに接近していくわけですから、その後友達や知り合いになるかならないかは別として、その一連の過程が非常に面白いと思ったわけです。<br />
<br />
私はあまり人見知りをしませんので、老若男女・人種や国の違いを超えて誰とでもいつもどおりに話しをします。そのときは相手の全てを考慮して話し始めるわけではありません。その全く逆です。<br />
まずは相手を知る前に自分への警戒心を解いてもらうつもりで、軽い会話をしていくのです。つまり誰であっても始めの入り口は「はじめまして」という何も知らない状態に変わりはないのですから。<br />
<br />
ところが警戒心が溶け始めると、人はだんだんと初対面での会話のキャッチボールをし始めます。そこでちぐはぐな会話をしている内容が何とも面白くなっていくのです。<br />
<br />
それまでの人生も経験も、趣味も好みも何にも知らない同士が、何だか会話をしているうちに気が合い始めたときの嬉しさはひとしおですよね♪<br />
<br />
予期せぬ性格や趣味を持っている驚くように楽しい人と出会ったときには、新しいブランドのバックを買ったときのように感動するのです。<br />
<br />
初対面が苦手だと思う方に是非おすすめなのは、自分にも相手にも関係ないような身近な話題から突破口を開いてみるという方法です。それがたとえつまらない芸能ゴシップであっても、世の中を賑わせているニュースであっても、美味しいご飯の話題であってもいいわけです。<br />
<br />
自分にあった警戒心解除のための会話仕掛けの方法を、いくつか常に用意しておくと便利かもしれません。<br />
たとえもう二度と会うことのないであろう人との会話であっても、無駄な時間として過ぎ去らせてしまうよりも、心に何かが残るような時間を共有することは自分のためにもなるからです。<br />
<br />
でもあまり続くと疲れますけどネ･･･(^_^;)<br />
<br />
<img src="images/lavende.gif" width="79" height="138" alt="" class="pict" /><br />
<br />
人は相手に対して警戒心を持っているうちは、会話というキャッチボールを上手に出来ないと私は思っています。]]></content></entry><entry><title>「時」は金なり！</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=720883" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=720883</id><issued>2008-05-06T07:27:59+09:00</issued><modified>2008-05-05T22:34:08Z</modified><created>2008-05-05T22:27:59Z</created><summary>ゴールデンウィーク連休も今日でおしまい。

ゆっくり出来た人も出来なかった人も、明日からまた社会という高速道路を車輪のように回転させ、走り始めなくてはなりませんね。


「時」がこれほど人間の手から離れ、自由に扱うことが出来なくなってしまったのは何時ご...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>世界遺産＆文化遺産</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#CC66FF">ゴールデンウィーク連休も今日でおしまい。<br />
<br />
ゆっくり出来た人も出来なかった人も、明日からまた社会という高速道路を車輪のように回転させ、走り始めなくてはなりませんね。<br />
<br />
<br />
「時」がこれほど人間の手から離れ、自由に扱うことが出来なくなってしまったのは何時ごろからなのでしょう。<br />
自然や大地、太陽や星辰と手を取り合って生きていた頃は、人はもっと「時」を深く知っていて、時とともに生き、時を愛し大切にしてきました。時が人を支配できることを知っていたからこそ、時に自らの人生を捧げてしまう愚かさに抵抗したのかもしれません。<br />
<br />
<img src="images/P1000146.JPG" width="320" height="240" alt="" class="pict" /><br />
<br />
マヤ文明では、「時」には支配者がいました。<br />
<br />
時を支配するものに畏敬の念を持ち、人々の心の中で「時」の支配者が持つ性質を感じ取り、自然や太陽が教えてくれる「時」の知らせを確かなものとして受け取りながら生きる道を歩んでいました。<br />
<br />
四季があるのに四季を知らず、自然現象が告げる重大な知らせにも耳を貸さず、何処へ向かう高速道路なのかも知らないまま走り続ける現代人のこころには、もはや「時」が告げる真実に目を向ける余裕などないのかもしれません。<br />
<br />
<br />
しかし昔から「時は金なり」と言われていることから、「時」のもつ本当の価値を発見することは人間にとって素晴らしいことだと認識されていることもまた事実です。<br />
<br />
時間に追われないように、時間を使うことの大切さは誰しも知っています。<br />
今という時間は二度と戻らないから、時を大事にすることの重要さも知っています。<br />
<br />
<br />
でも「時」には大いなる力と権威、世界を変えてしまうほど強い性質と富があることをはっきりと認識している人は多くはありません。<br />
<br />
<br />
いいものも悪いものも<br />
辛いことも嬉しいことも<br />
病も痛みも<br />
不幸も幸せも<br />
すべては時が解決してくれます。<br />
<br />
しかしこの「時」は、単なる「時間」ではありません。<br />
1時間、一ヶ月、一年と「時間」が過ぎるから解決していくのではないのです。<br />
<br />
「時」の支配者に身を委ねることしか出来ない事柄は「時」の支配者によって「解決」出来るのです。<br />
決して「時」を甘く見てはいけないのです。<br />
<br />
「時」のことをもっと知りたい！<br />
そう思われた人は、「時」の大切さに畏敬の念を抱いている人に違いありません。<br />
<br />
マヤ文明の智恵には「時」について学べることがたくさんあります。<br />
<br />
<br />
私の車輪もまた回りはじめました。<br />
あまりはっきりしない天候が続いた連休最後の早朝に、雲ひとつない青空を見ることができて嬉しく思います。<br />
<br />
<br />
(*^_^*)</span>]]></content></entry><entry><title>誰かと誰か</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=709745" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=709745</id><issued>2008-04-17T15:35:57+09:00</issued><modified>2008-04-17T06:37:51Z</modified><created>2008-04-17T06:35:57Z</created><summary>誰かが誰かを愛するとき　宇宙の果てに星が生まれる

誰かが何かを失うとき　木々の間にそよ風が乱舞する

誰かが誰かを助けるとき　大地に新芽が顔をのぞかせる



ひとりが一番なんて強がりをいっても

人生100年なんてどんなに励まされたとしても

人は誰...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>文学・神話</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#FFCCFF">誰かが誰かを愛するとき　宇宙の果てに星が生まれる<br />
<br />
誰かが何かを失うとき　木々の間にそよ風が乱舞する<br />
<br />
誰かが誰かを助けるとき　大地に新芽が顔をのぞかせる<br />
<br />
<br />
<br />
ひとりが一番なんて強がりをいっても<br />
<br />
人生100年なんてどんなに励まされたとしても<br />
<br />
人は誰かと関われなけりゃ　生きてる実感なんて持てやしない<br />
<br />
<br />
<br />
愛の間を彷徨っていた少女が白髪の老人に優しくできたとき<br />
<br />
ひきこもっていた青年が盲目の少年の手を引いて歩いたとき<br />
<br />
子育てに疲れ果て暴力をふるっていた母親の髪を、幼子が笑顔で優しく撫でてあげたとき<br />
<br />
誰かと誰かの運命の吐息に力が吹き込まれ、きらめく光が宇宙の星辰を照らしあっては輝きを放つ<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
つまらないなんて言わないで　黙って受け止めてみよう<br />
<br />
面倒だなんて思わないで　静かにさみしい人の声を聞いてみよう<br />
<br />
そこに見いだすのは忘れていた自分だから<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
都会の雑踏の真ん中で孤独を感じ　人里離れた山奥のロッジで愛を感じる<br />
<br />
高度な医療施設の真ん中で病の傷みを感じ、大自然の真ん中で癒しを感じる<br />
<br />
社会のうねりに飲み込まれた人は死を間近に感じて震え慄き、社会を捨てて山に篭った人は死を感じては美しさに戦慄を覚える<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
何が正しくて何が間違っているかなんて　誰が決めたっていいじゃないか<br />
<br />
<br />
何がよくて何が悪いかなんて　知らなくてもいいじゃないか<br />
<br />
<br />
そんなことよりもっと大事なことがある<br />
<br />
<br />
<br />
誰かが誰かを愛することや　誰かが誰かを失うこと<br />
<br />
誰かが誰かを助けることや　誰かが誰かと呼応すること<br />
<br />
<br />
<br />
誰かをわたしのなかに受け入れれば　誰かはわたしの中心にいて　わたしは一人ではなくなり<br />
<br />
<br />
愛によってわたしが誰かの中に溶け込めば　わたしの周りには必ず誰かがいて　わたしは一人ではなくなる<br />
<br />
<br />
(^^)v</span>]]></content></entry><entry><title>脳と心が生み出す追いかけっこ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=702820" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=702820</id><issued>2008-04-06T12:01:25+09:00</issued><modified>2008-04-06T03:37:02Z</modified><created>2008-04-06T03:01:25Z</created><summary>子どもの頃の楽しい遊びの一つに「追いかけっこ」があります。
人は誰かに追いかけられると理由など関係なく反射的に逃げる、という反射行動本能を巧みに利用した面白い遊びです。
ところでこの「追いかけっこ」という遊び、追いかける人と逃げる人のどちらが楽しいでし...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>こころの事</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[子どもの頃の楽しい遊びの一つに<span style="color:#FF0000">「追いかけっこ」</span>があります。<br />
人は誰かに追いかけられると理由など関係なく反射的に逃げる、という反射行動本能を巧みに利用した面白い遊びです。<br />
ところでこの「追いかけっこ」という遊び、追いかける人と逃げる人のどちらが楽しいでしょうか？<br />
<br />
一生懸命追いかける子は、逃げる子を掴まえようと必死ですし、逃げる子はつかまらないよう逃げるのに必死です。<br />
人は「時間の追われて･･･」とか「逃げるが勝ち」などのように、追ったり逃げたりすることを習性とするかのような言葉を使うことがあります。<br />
この「逃走」について少し考えてみましょう。<br />
<br />
<img src="images/Naturesora.JPG" width="256" height="192" alt="" class="pict" /><br />
<br />
逃げる人<br />
逃げる→追いかけられる→つかまる→逃げる<br />
<br />
<br />
追いかける人<br />
（相手が逃げる）→追いかける→つかまえる<br />
<br />
<br />
逃げる人と追いかける人の関係は、見てわかるように逃げる人がいなければ当然追いかける人は発生しません。<br />
たとえば逃げる子は、掴まえようと追いかけてくれる子が休憩しているときは逃げるのをやめることができますが、追いかける子に追いかけられている間は、つかまらないた<br />
<br />
めには逃げ続けるしかありません。<br />
ところが追いかける側の子は、逃げる子が逃げているときは追いかけますが逃げている子が休めば、掴まえます。そして逃げる子が逃げていても休憩をとったり追いかけない<br />
<br />
という選択をとることも容易です。<br />
<br />
このように見ると、追いかける子は自分に選択の自由があり、逃げる子は自由があるようで実はありません。<br />
さらに逃げる子は、追いかけてくる何かがあるから逃げる、逃げなきゃいられずに逃げる、つかまるのが嫌だから逃げる、逃げる理由も考えずにとにかく逃げる、というように意味のない循環をひたすらぐるぐる回りすることから抜け出せずにいることに逃げる人は気づきません。<br />
<br />
また、追いかける側にはちゃんとした追いかける理由があります。<br />
それは追いかける必要があるからであり、また「逃げる」相手がいるからです。<br />
ということは、追いかける側が追いかけることに理由に意味を見いださなければ、追いかける必要もなくなります。<br />
<br />
ここで「逃げる」という行為を人間の防衛本能や本能的習性であることを認めたら、そこには明らかな理由がないことを私たちは発見します。<br />
つまり逃走することは、誰かが教えなくても人間が自然に出来る反射的行為であるとも言えるでしょう。<br />
<br />
最初の質問に戻ると、追いかける人は掴まえることが楽しかったり追いかける必要を感じたりする人は楽しいと感じるけれど、そこに理由を見いださない人には面白くないということが理解できます。逆に逃げる人は、逃げること自体が動物の反射機能に属しているため、理由など関係なく、追いかけてくれる人がいる限り逃げるのは面白いと感じ、逃げ切れることに喜びさえ感じるに違いありません。<br />
<br />
となれば「追いかけっこ」では、追いかける子より逃げる子のほうが面白い！となるのでしょうか。<br />
<br />
この「逃走する習性本能」もちろん「遊び」に留まりません。<br />
人間は何か困ったり、苦しんだり、悩んだりすれば、その原因・根源から逃げようとする学んだ習性と反射本能があります。<br />
それは自分の生活に追い迫る「何か」が、自分を捉えようとしていると感じているからです。<br />
その「何か」に対して対処できる術や智恵があれば、逃げる必要などないわけですから、その人にとっての「何か」は当然脅威的であり、得体の知れない理由なき相手であることに違いありません。<br />
先ほどのように、逃げる子が追いかけてくる何かがあるから逃げる、逃げなきゃいられずに逃げる、つかまるのが嫌だから逃げる、逃げる理由も考えずに逃げる、という意味のない循環の坩堝にハマることに気づかないまま、その人は本能に赴くままとにかく「逃げる」わけです。<br />
<br />
それでは何の解決を生み出さないのですが、動物的反射機能だから致し方ありません。<br />
脳が逃げる習性を抑えようと理性を働かせても、動物的身体を備えた心が逃げる習性を持つならば、それは脳と心が生み出した妄想の追いかけっこになってしまい、妄想と習性から逃げ出すには脳と心の両者だけでは解決できなくなってしまいます。<br />
<br />
ではどうすれば「逃げず」にすむのか。どうすれば掴まらずにすむのかを考えてみます。<br />
<br />
逃げる人が逃げることから自由になるときはいつでしょうか？<br />
<br />
一つ、つかまったとき。<br />
二つ、追いかけるのを相手がやめたとき。<br />
三つ、逃げない選択をしたとき。<br />
<br />
本能のままに逃げる循環から抜け出すためには、上の３つの選択が考えられることに気づく必要があるわけです。<br />
しかしたとえ本能的反射行動であっても人間は理性で認識することによって心の習性をコントロールすることは可能です。<br />
そのためには理性の認識を用いて逃げることから自由になることが可能になることを、逃げている人に教えてあげなければなりません。<br />
それがどれほど大変であっても、どれほど辛いことであっても、どれほど面倒で苦しいことであっても、ひと度逃げてしまうと、追いかける「何か」から逃げ続けなければなりません。そしてそのことは別の「苦しみ」を生み出します。<br />
<br />
自分の強い意思で反射としての逃走本能に打ち勝つための自信がない人が、自分ひとりで戦うのではなく、誰かに手助けをしてもらうことも一つの方法かもしれません。<br />
<br />
掴まえてくれる何らかの手段に頼る<br />
追いかけないよう相手に頼る<br />
逃げないように抑えてくれる誰かに頼る<br />
<br />
そんな方法であってもいいのです。<br />
とりあえず「逃げる」という車輪から誰かの力を借りて抜け出すことが大切なのです。<br />
そして逃げずにいられるようになったら、何故逃げたのか、何から逃げたのか、逃げた理由をしっかりと理解することで、自分の本能に打ち勝つ力を得るでしょうし、理由なき戦いに終止符を打つこともできるでしょう。<br />
<br />
「逃げる」という行為が人間の反射であり防衛本能である以上、それは誰しもがとる行動なのです。<br />
そしてその本能を操ることのできる理性と意味と力を手にしない限り、人が逃げるという逃走本能に終わりはないということなのです。<br />
<br />
逃げるが勝ちか、掴まるが勝ちかは、その人の知性と理性によって選択される回答なのだということでしょうか･･･(*^_^*)<br />
<br />
<img src="images/lavende.gif" width="79" height="138" alt="" class="pict" /><br />
<br />
ところで別の角度から「追いかける」人について少し考えましょう。<br />
<br />
もし悪知恵の働く鋭い知性の持ち主が「追いかける」ことを始めるならば、いつの間にか普通の人は「逃げる」という手段をとっていることになるかもしれません。逃走反射を巧みに利用しようとしているわけですから。<br />
さらに、逃げる意志のない人が突然「追いかけられる」という羽目に合ったなら、それは危険を伴うということも知らなければなりません。<br />
<br />
これら「追いかける」「追い詰める」「追い求める」の元となっている「追う」という心理には、逃走反射本能とは全く異なる意味で、人間の本能に近いものが存在しています。<br />
それは「目標をめざして進む」という意味においての心理作用です。<br />
<br />
「逃げる」のが逃避・防衛する本能なら、「追いかける」のは好奇心を満たし、獲物を得るときの達成感のような人間の欲に関わるものだと言えるのではないでしょうか。<br />
<br />
誰しもが持つ生理的・社会的欲求や本能は、人の心や肉体、精神を満足させようとする反面で人の理性と知性に常に戦いを挑み、挑戦状を送り続けています。<br />
そしてその解決方法は無限にあるでしょうし、心の動きも同様の変化分あるでしょう。<br />
けれど人間である以上、決して動物的本能にまかせてばかりもいられません。<br />
<br />
脳にも心にも共通して存在している習性があります。<br />
「自らの身や存在を敵から守る」本能と「生存本能」です。<br />
そのうち特に強いのは「生存本能」だと私は思います。<br />
「生ある存在であること」を無視されたり、拒否されたり、追い詰められたり、隠れ潜んでいるままにしたりすれば、人の精神などあっという間に崩れてしまうに違いありません。<br />
<br />
<span style="color:#CC33CC">追いかけっこは遊びながら楽しんですればいいのです。<br />
しかし脳と心が生み出す妄想の追いかけっこに、本気になって心も精神も疲れ果ててしまうのは愚かなことなのではないでしょうか。</span><br />
<br />
逃げようとする友がいたら、追いかけずに立ち止まり、掴まえようとせずに耳を傾け、自の車輪から逃げないという選択が出来るよう支え、友の車輪を止めようと共に原因に立ち向かってあげること。<br />
そんな本当の友に私はなりたいといつも思っています。<br />
(^^)v]]></content></entry><entry><title>メスが入った「科学の真実」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=696630" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=696630</id><issued>2008-03-27T09:47:40+09:00</issued><modified>2008-03-27T01:58:29Z</modified><created>2008-03-27T00:47:40Z</created><summary>自然と宇宙の一部である人間の肉体には驚くべき能力が隠されていて、真実の宝がたくさん隠されています。
本来学問は人類と世界を進化させるためにあるのではなく、頭脳を集結させて人間がより健康に、より平和に生命を全うするためには何が大切で何が必要かを知るために...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>学問と神秘</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#6633FF">自然と宇宙の一部である人間の肉体には驚くべき能力が隠されていて、真実の宝がたくさん隠されています。<br />
本来学問は人類と世界を進化させるためにあるのではなく、頭脳を集結させて人間がより健康に、より平和に生命を全うするためには何が大切で何が必要かを知るためにあるのではないでしょうか。<br />
そのために研究と努力を積み重ね、自然と宇宙が与えてくれている財宝のありかを探していく･･･そんな知的好奇心と探究心こそ私たち人間にできる神への恩返しなのだと思うのです。<br />
<br />
最近感動した本を紹介します。<br />
<br />
ジャーナリストで翻訳家のケイ・ミズモリ氏が著した「超不都合な科学的真実」です。<br />
<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=4199060057%26tag=tanetane1q-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/4199060057%253FSubscriptionId=0SQQ58C8ZJED59QF1HG2" target="_blank"><img border="0" src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21QfTQ9eRBL.jpg" alt="超不都合な科学的真実 もうからない重要な発見はすべて潰される! (5次元文庫 み 1-1)" /></a><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=4199060057%26tag=tanetane1q-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/4199060057%253FSubscriptionId=0SQQ58C8ZJED59QF1HG2" target="_blank"><strong>超不都合な科学的真実 もうからない重要な発見はすべて潰される! (5次元文庫 み 1-1)</strong></a><br />
ケイ・ミズモリ<br />
<br />
<br />
すでにもうご存知の方も多いと思いますが、この本に書かれている内容は一見するとあまりにも空想的で現実的だとは思えないようなものです。<br />
<br />
例えば癌やエイズでさえも治すという不死身の生命体「ソマチッド」の存在、声に隠されている驚くべき秘密を病気の治療にと役立てようとする試み、そして私が衝撃を受けた「リバース・スピーチ」の謎と応用など、どの記事を読んでも私たちが日常接している多くの常識的概念では理解できないようなものばかりでした。<br />
<br />
特に私が興味を持った内容は、人間の無意識を明らかに出来るとされる「リバース・スピーチ」という技術の報告でした。<br />
<br />
簡単に説明すると、オーストラリアのデイヴィッド・ジョン・オーツ氏によって研究分析されたもので、話し言葉を逆再生することでそこに現われる無意識の言葉によるメッセージが何を伝えているのかを検証した分析結果の報告です。<br />
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元アメリカン・フットボール選手のＯ・Ｊ・シンプソンが奥さんを殺害した容疑で捕まり、その後の裁判で交わされた会話の一部を逆再生してみた結果、裏モードでは有罪を認めている言葉が現われているというのです。また、生後4ヶ月ごろの赤ちゃんが発する意味のない言葉の数々も、逆再生してみればそこには「ママ」「パパ」「お腹が空いた」「助けて」などのような単語が聞き取れるのだというのです。<br />
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無意識の言葉に関しては、私も多くの資料を読んだり調べたりしてきましたが、このような方法によって何らかのメッセージが解読できるかもしれないという可能性を与えられたことは、衝撃的な感動に匹敵するものでした。<br />
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書き言葉であれば、書いたままのキャラクターをそのまま逆読みすればいいのですが、話し言葉は違います。<br />
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「よいこはどこだ」を書き言葉で逆にすれば「だこどはこいよ」となりますが、話し言葉では「あどおこぉだあうぉくいぉゅ」のようにまったくわからないものになってしまいます。<br />
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オーツ氏によると、逆再生メッセージは、顕在意識下で行なわれる論理的なスピーチを補完するように、無意識のうちに同時に生成され、発言する人物の真の心の状態が判明できるものとなるといいます。<br />
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この発見が心の深層にある無意識を科学的に証明できるかどうかはまだわかりません。無意識の領域からはユングのいうように「元型」を伴って現われたり、夢を通してメッセージを伝えてきたりと私たちの意識に働きかけていることは間違いありません。そう考えれば「言葉」という自然な媒体を通して働いていると考えることは当然といえば当然なのだとも言えるのではないでしょうか。<br />
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<a href="http://www.keimizumori.com" target="_blank">ケイ・ミズモリ氏のホームページ</a><br />
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心の深層を科学することは人類の好奇心を飽きさせません。<br />
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現代人の身体は、病院の医師や処方される薬なしでは病を治癒できないようなものになりつつあります。それは確かな進歩である反面、本来人間に備わっている自然免疫力や治癒力の低下を意味するとも言えるのではないでしょうか。<br />
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この地球に太古から存在していた「ソマチッド」のような原始的生命が何を語っているのか、耳を傾けてみることが現代人にとって必要なのではないでしょうか。<br />
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多くを語らず真理を秘める事柄や存在は、もしかしたら私たちの一番身近なところに潜んでいるのだということを教えてくれているのかもしれません。<br />
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(*^_^*)</span>]]></content></entry><entry><title>無意識の願望</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tane1q.com/?eid=694847" /><id>http://blog.tane1q.com/?eid=694847</id><issued>2008-03-24T09:53:08+09:00</issued><modified>2008-03-24T01:16:23Z</modified><created>2008-03-24T00:53:08Z</created><summary>人の魂は「情動」を食物として摂取しながら成長していくのだと私は思います。


心が震撼するような感動を味わうと、人の目には自然と涙が溢れてきます。
それが嬉しさいっぱいの喜びであったり、胸を打つような愛のふれあいであったりすればもちろんのこと、反対に苦...</summary><author><name>種一弓＆からから★</name></author><dc:subject>無意識の真実</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<span style="color:#FFFFFF"><span style="color:#FF0000">人の魂は「情動」を食物として摂取しながら成長していくのだと私は思います。</span><br />
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心が震撼するような感動を味わうと、人の目には自然と涙が溢れてきます。<br />
それが嬉しさいっぱいの喜びであったり、胸を打つような愛のふれあいであったりすればもちろんのこと、反対に苦しみや絶望から希望の光に向かって歩んだ人間の強さや偉業の影に積み重ねてきた苦労と努力の歴史のようなものであっても、心から突き上げてくる感情の動きは人の心を捉えます。<br />
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この「情」の動きは自分が選択するしないに関わらず、心の底からわき上がってきます。<br />
普通の人なら誰でも最小限は持っている「人情」のようなものを揺さぶるからなのかもしれません。<br />
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そして情動の体験を多く積んできた人は、感性が研ぎ澄まされ、心が震撼するような事柄に敏感になります。<br />
そしてそれらは肥やしとなって人間の魂を成長させてくれるのです。<br />
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ところで、無意識には普通の常識では知りえないような、驚くような力が隠されていることに私は魅了され続けています。<br />
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心を揺さぶるような発見や感動を、言葉にして伝えたいという思いから「無意識の世界」ウェブサイトやこのブログを立ち上げたのです。<br />
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魂の肥やしである「情動」は、人間側の選択によらないと申し上げましたが、実はもう一つ別の側面からも、魂の栄養を補給できる方法を発見しました。<br />
そしてそちらもまた、ある意味では人間側の積極的な努力による以上に自分の意志に関わらずというような前提があるようです。<br />
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それは<span style="color:#FF0000">「疑問」「興味」「好奇心」</span>のようなものです。<br />
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たとえば私の素朴な疑問･･･<br />
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「私という人間の考えていること、体験したこと、理想や希望や夢などの全ては、どのような理由によりこのような経緯をたどって現在のような思考形態を持った私に落ち着いているのだろう」<br />
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４７年も生きていれば、自分の意志でそうなったことばかりではなく、自分の意思や考え、理想などとは全く反して現実が進行してきたことなど山ほどあるわけですし、求めているものとは異なった体験や経験などは当たり前で、ケ・セラセラの気持ちでなければ生きてられないような時のほうが多いかもしれません。<br />
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もともと現在の環境や両親を選んで生まれてきたわけではないのですから、自分の意志など通せずしてこの世に誕生したことを考えれば、当然の成り行きなのかもしれないわけです。<br />
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このように見てみると、現在の私が持つ興味や関心は、過去の時間の一点で接した事象や対象物との関わりによって意識が敏感に反応した接点であったに違いないところが発端となって現在に引き継がれてきていることなのですが、それではどうしてそのようなことに敏感に反応したのかといえば、ほとんど偶然でしかあり得ないような確率で私の意識を捉えているのだと思うのです。<br />
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「今の私の意識はどのように決定されて誕生したのか」という哲学的で心理学的で脳科学的な疑問に、私の意識はやはりたどり着いてしまうのです。<br />
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もしかしたらこの答えを見つけるために私は生きているのかもしれません。<br />
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そしてこの疑問に関連することなら、それが学問の如何なる分野であっても自然や天文学的な智恵・知識であっても、私にとってはどんなに奇奇怪怪で難解な論文集であっても、そこへと踏み入ずにはいられない私がいることも事実であり、それがまた私にとっては不可思議なことなのです。<br />
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そんなに難しく考えることなどない、馬鹿馬鹿しいと思えばそれまでなのですが、人間の興味や疑問は誰か他人に止められるようなものではありませんし、やめることさえもはや自分の意志では出来なくなってしまっているのです。<br />
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このように「疑問」や「興味」は誰かに教えてもらって覚えるから出来るようなものではありません。<br />
自分の中からある意味「勝手に」沸きあがってくるようなものなのです。<br />
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例えば小さな子どもが夢中になって電車で遊んでいます。<br />
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その子は電車が大好きで、一目見ただけで日本中の電車の名前を言い当てます。<br />
また彼はその電車が止まる駅さえも覚えており、順番を間違えずに全て言うことができます。<br />
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ではこの子は何故そこまで「電車」が好きで、興味があり、驚くような記憶力で電車に関する事柄を記憶として蓄積できるのでしょうか？<br />
そしてそれが「何故」「彼」なのでしょうか？<br />
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答えとして「彼のお父さんが電車の運転手だから」とか「電車を小さい頃から見せていたから」とかいうような愚かなものを提供するのはやめて･･･<br />
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つまりは、彼の心に電車に対する興味を生まれさせ、わくわくするような好奇心に火をつけ、記憶することで電車への憧れと想像を広げて夢見ることができるように、もっとも彼に相応しい「対象物」を与えることが出来たのは「無意識」の成せる業なのです。<br />
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私はそれを<span style="color:#FF0000">「無意識の願望」</span>と名づけて呼んでいます。<br />
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それは彼や私の意思とはほぼ関係ないところで勝手にわいてくるようなものなのです。<br />
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「エジソンの母」というタイトルのテレビドラマが放映されていました。先日最終回を迎えたのですが、結構楽しみながら毎週見ておりました。<br />
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ある日転校してきた小学1年生の少年は、好奇心がとても旺盛で、彼の疑問や好奇心がクラスや学校、友達や先生方を巻き込んでてんやわんやになるというストーリーなのですが、とにかく面白いものでした。<br />
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最終回も見事な終わり方をしていて、こちらも何だかすっきりした感が残るものになっていました。<br />
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なぜそこまで私の興味をひきつけたのかと言えば、それは「疑問」「好奇心」に罪はないという私の信念に火をつけたからだと思います。<br />
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人間が何に興味を持つのか、どのような時にその好奇心が生まれるのか、疑問はどのようにして湧き出るのかなどに、正しい道筋や答えはありません。<br />
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そしてその疑問の出所がその人を支えている無意識の人格によるものなのか、天からの命なのか、才能なのかはわかりませんが、ひとりでに自然にわいて出てくるのは確かだということです。<br />
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様々な学問的社会的な情報を背景にして「無意識」の本性について調べてきた私にとって、好奇心や創造の産物が何らかの形で無意識に関与しているという考えに行き当たったことは嬉しいことでした。<br />
そしてその本性は脳領域の問題、神学的な問題、哲学的医学的な問題に真っ向から対決を挑んでいるのです。<br />
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誰でも人は何かの対象に興味を持つものです。<br />
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<img src="images/j0223770.gif" width="149" height="130" alt="" class="pict" /><br />
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それが異性ならもちろんのこと、この世界にあるありとあらゆる事象・対象のうち何らかのことが心にやけに引っかかり、そこから想像や探究が始まるのです。<br />
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ところで最初の私の疑問についてですが、同じように答えを求めてやはり日々、無意識の願望に操られている人は少なくないと思います。<br />
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自分の意識する意志が望む望まないに関わらず、無意識にわいて出てくるものこそ自分の欲望を駆り立てる大いなる活動力となっているのは心的リビドーなのでしょうか？　<br />
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それとも側頭葉てんかん患者に多く見られる症状に類似した概念であり、感覚中枢と扁桃体との結合による何らかの影響による脳内研究対象の事例なのでしょうか？　<br />
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それとも超心理学的心的現象か進化心理学で議論・解釈されるべき問題なのでしょうか？　<br />
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そしてそれは神の啓示・アセンションと関係がある宗教的神学的理解が必要なのでしょうか･･･?!<br />
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魂の栄養である「情動」や「無意識の願望」は、普通に人間が暮らしていく上では、あまり意識されません。<br />
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例えば私たち人間が空気を吸うことを毎回意識しないように。<br />
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人が意識的意図的に出来ないような思考、願望や行為は無意識的なものです。そしてその無意識的なものには、たくさんの真理が隠されているのもまた真実なのです。<br />
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私の無意識への探究心という無意識の願望に、終わりは来ないように思います。<br />
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